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 おひるねXさん、こんばんは。作為的な味」というキーワードが、心にビビビッと響いたので、ちょっと割りこんでみたいと思いました。
 とはいえ、本筋とあんまり関係ないことを書きます。それから、ええと、もともと「ばかばかし」くて「作為的な味」を出すという意図が、作者の中崎さんにあったのかどうかは、問わないことにします。中崎さん、ごめんなさい。

〉 一足だけというほうがいいですよ。ばかばかしさというか作為的な味があるじゃないですか? ちがいます??

 うーん。「作為的な味」がないからこそ(つまり、作為ではなく単なる言葉遣いのぎこちなさ、推敲不足と見なされているからこそ)、わらさんや石川楡井さんのような指摘が出てきているんだよなあ、と思いました。
 ペアで一足のはずの靴を、一足「だけ」と言ってみたくらいでは、「ばかばかし」いほど「作為的な味」にはたどりつけないんじゃないか、と思います。
 馬鹿への道は、もっと遠くて、深い。
 言葉遣いや文法を間違えて「ねじれ」ている表現をわざと作り出し、「単なる誤用ではなく、確信犯=作為なんだよ」と読者にはっきり分からせ、なおかつ「味」を醸し出すのは、なかなか難しいことだよなあ、って、いつも思います。
 よっぽどあざとくやらないと、「文章がぎこちないね、この人」と言われて終わってしまう。うまく「作為」であることを認めてもらえたとしても、「ほう。変ったご趣味をお持ちですなあ」と言われ、それっきり。労多く、実りが少ない。そのせいか、プロでも本気で取り組んでいる人はあんまりいない気がします。僕が無知なだけかもしれないですけど。

 思い出すのは、鈴木志郎康の「月」という詩の、こんな一節だったりします。

  私は人妻が手淫していた
  私は老婆が手淫していた
  私は女性重労働者が手淫していた
  私は人妻が手淫していた
  私は牛乳びんが手淫していた
  私は時計が手淫していた

 ここまでたたみかけられると、なるほど、見事に「ばかばかし」くて「作為的」ですよね。それだけでなく、ちょっと鬼気迫る感じさえするかも。
 こういう詩を読むと、単なる誤用と「作為的な味」との間には、「長ねぎ」と「フランスパン」くらいの違いがあると思うんです。
 でも、いったいそれが何に由来する違いなのか、どうしたら「作為的な味」が出るのか、僕には全然わかりません。わからないから、引き続き小説を書き、読んでいるとも言えます。

 ついで全然関係ないことを言うと、中崎さんの小説に出てくる「下駄箱」って、僕、好きなアイテムですね。秘密めいている。何かが起こる予感がたちこめている。ささやきのような秘密の会話と、下駄箱とを結びつけたくなる心情は、よくわかる気がします。
 近々、そういう小説を書いて投稿することに決めました。

 ……話は戻って。
 褒めていながら推薦しないのは、なんか書き手にとっては腹立たしいですよね。僕もよく、地団太踏んだもんです。
 でも、感想を書く立場に立ってみると、僕はわらさんに全面的に共感しますね。
 全体的に見れば、投票するにはちょっと足りない。でも、きらきらする細部がある。その細部をめぐって、何かを語ってみたい。そういう小説は、今期、多かった気がします。
 たとえ投票はされなくとも、また必ずしも肯定的な感想でなくとも、自分の小説を読み、それに誰かが心を動かす、というのは、なかなか楽しい体験だと、今は思うようになりました。それに、「ちょっとおもしろいな、おまえの小説。ちょっとだけど」と言われる方が、「おまえの小説、全然褒められたもんじゃないし、はっきりいって嫌いだけれど、投票しとくよ」なんて言われるより(そんなこと言われたことありませんが)、よっぽど嬉しいです。やっぱり。
 文法的なミスの指摘もあっていいんじゃないでしょうか。今期、僕の書いた小説にもいっぱい誤記があることが分かって、実は深く落ち込んでいます。わはははは。いやいや、指摘はありがたいことです、本当に。
 作家論、作品論があってもいい。こんなふうに論争するのも愉快。批評は北風でなく太陽、ヒ氷ならぬ火ヒョウだと割り切って、楽しんでみてはどうでしょうか。

 長くなりました。また、いつかどこかで。 でんでん

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