「私の存在」
主人公よりも年下(走り回る、から子供を連想した)な、かといって人間らしさのない(人で言うと座った姿勢とは、人でない場合に使う言葉ではないのか)生命、といったものを想像させる。○○ポルノのような、一種の不幸を押し付けるといった感慨もある。
主人公と彼の年齢や関係性が明確になっていないので、主人公の独りよがりが浮き立ってしまう。タイトル「私の存在」も私を中心とした言い方であるし、彼という他人を用いながらも自我を強く主張している小説として読める。だとしたら、最後の一文「彼は観ていただろう。」のように彼の視点(そもそも、帰っていく私[私の背中]を観ている彼を、私の視点からは観ることはできないが)をあえて入れるのには違和感が残った。主人公目線での最後というものが必要であったのではないのであろうか。その方が自我をより強調できたように思う。
「蝉の声」
家族とは何であろう。子供とは何であろう。血のつながりがないことは家族になれない条件なのであろうか。子供になれない条件なのであろうか。
例えばこれが、まったく血縁関係のない、友人の子供、孫(もしくは公園で見かけた子供でもいい)などであったら、そんな感情をいだいたのであろうか。素直に「大きくなった」ことを喜ぶのではないのであろうか。だとすると、養子ということが不幸を感じる要因にはならないと思うのである。遺伝子を残す上での不満(手足の形が似ているとか、父と子の寝相が似ているとか生活の節々で感じとれる幸せはないはずであるから)はあるかも知れないが、作者はそれを「何の問題もなく、ごくごく平凡な時間」として片付けてしまっている。
主人公はなぜ子供を持てないことを嫌だと思ったのであろうか。また、そのことに対して妻がなぜ(例えば痛みではなく)悲しみを抱いたと感じたのであろうか。親は決意を持って養子をとることができる。しかし、子供は決意すら持てないまま養子になるのである。文字数に余裕があるのでそこらへんを書いても良かったのではないのであろうか。
「世界人類に平和が訪れるなら。」
「LOVEさえなければPEACE」とタモリが過去に言った。
誰に対して何を言いたいのかが分からないから、愚痴どまりな内容に読みとれてしまう。まぁ、十代の意味を持たない葛藤(感情が先走ってしまい整理して伝えられないといった感覚)を書いたと捉えられなくもないが、私はそこまで容認できなかった。これは、スクールカーストやアイデンティティーといった言葉が作者の内面を反映しているように読めるからで、小説という形になる前の作者の心の葛藤のようでもある。言いたいことはあるが、言わないよ、という僕がもし、日本に生まれていなかったなら。果たして同じことが言えたのであろうか。もっと別な世界が見えたのではないのであろうか。そんなことを考えてしまった。
吐き出されきっていない作品の典型のようであり、とにかく吐き出した先にある作品にいってほしいと思う作品である。
「パパ」
七歳差でパパという感覚にズレを感じている。私の年齢のせいなのか。
顔面が蒼白(目視できる状態)になるまでには、死後、三十分以上かかる。だったら、死後、三十分以降から一時間くらいの出来事であるかなと推察した。死後、一時間で体温は0.5度から1度低下するそうである。その体温差でパパを冷たいと感じられるのであろうかとの疑問は残る。ここで考えを変える。誕生日の回想シーンで数時間(数時間は温もりがあるらしい)が経過していたら、冷たいということもあり得るかと。そうだとしても、よくある理由で殺されているから、殺されたということがセンセーショナルになっていない。センセーショナルさがないことが作品を平凡に見せていることに変わりはない。
どうも無性の愛が引っかかって調べた。誕生日の会話は贈与の関係(パパになるということに対する見返りがお互いに存在する)であるから、その時点で無性の愛は存在しなくなっている。また、その後の「漸く手に入る」という言葉も、無性の愛自体、ようやく手に入れるものではないと考えられることから、無性の愛というものは最初から存在していないということが言える。
本当は、殺しても尚、愛するという精神面を書きたかったのではないのであろうか。惨殺だけで終わってしまったことが残念な作品である。
「夢?」
夢おちではない小説。前半は面白いと思った。
私が疑問で終わる意味が活かされていないと考えたのは、結を持たせない疑問が読者の感情を分散させてしまっているからである。夢を言葉にするほど、つまらないものはなく、だからこそ、その夢を読者に印象づけさせるためには、所謂「起承転結」が必要であろう。しかし、この小説は疑問という形で結から逃げている。夢おちというラインまで届いてはいない。そのことが、先に書いた読者の感情の分散につながると考えた。
雨の降っていない世界から雨の降っている世界の自分の背中を見ているとすると、次元にまつわるようであるし、季節感を考えると幽体離脱とも捉えられるし、単に夢の中で夢の中の自分の背中を見ているとも捉えられる。自分を後ろから見ることを作者はどう捉えていたのであろうか。作者はきっと、そこに重要なものを見出だしたのであろう。だったら、そこを作者なりに提示する必要はあったであろう。
「四郎」
教訓を書かないことを目標にしました。ただ単に不幸だけが訪れるというような。そこから何かを得られればなんてことは。
「訪問」▲
小さな教訓というのであろうか。静かで淡々と時の流れる、そんな時間を過ごさせてもらった。相対的には評価してもいい作品である。怪談じみたものをはじめ想像させたが、結局は大人になると忘れてしまう感覚を書いただけに読め、これぞ、という決まり手に欠けた印象が残った。それが絶対的評価にならない理由である。
「誰も話さなくなった日の終わり」
最後の一言がすべてを語る。
「作者の書きたかったことって何」と読者は思うのである。
マフラーの所在や靴の湿り気など、問いかけはあるが、答えがないので投げやりな印象だけが残ってしまう。
他の作品でもそうであるが、文字数の少ない小説は内向きな感情に潜り込もうとする傾向が見える。これは吐き出されていないということであり、そういった感情ともとれない感覚(誰が誰に対して言っているのか分からない書き方に加え、最後に君という不明な存在を出されると、結局、何が書きたかったのかが分からなくなる)はとにかく早く吐き出してしまって、その先にある作品を書いてほしいと願う。タイトルはインパクトがあったが、季節感は少し考えたほうがいいとも思った。
「虫のこと」●
やはり、読者への歩み寄りが少ないと思う作品である。ただ、書きたいことは何となく伝わるし、構成よりも感情が先走ってしまうという感覚も分かるから、本当に、歩み寄りがあればなぁと、毎回考える。でも良かった。
勝手にMUをMUSHI(虫=無視)のMU(またはMUSEIのMU)と捉えた。MUには場を読めない特性というものがあるらしい。分け隔てのない彼女が会社にこなくなった理由が何度か読むうちに理解できてきた。ただ、下半身の汚れ(夢精なのか。ヒアリの夢からの夢精というより、自殺した美人からの夢精を強く感じはするが)の理由は分からない。もし、夢精だとすると性に対する幼児性のあらわれなのか、それとも、彼女への思いなのか。
彼女の自殺の原因が少なからずMUにある(彼女を手伝わなかったMUへの給茶室の奥からの視線からそう思う)とまわりは思っているらしい。その毒を単純に特性と捉えてしまっていいのかを考えた。ただ、十年勤務しているということはMUの生き方はこれでいいのだとも言える。仕事を手伝うことに対してMUは至極真っ当な対応をしている。不条理な断りではない。MUの中でひとつの法則のようなものがあって、それに沿った対応であれば、MUは断らないし、単なる、空気読めよ、みたいな対応であれば、それは、MUの対応外となる。察すれよ、という気配のようなものが作品全体を包み込んでいて、すごく、やりきれない感覚が残る作品であった。
「家族」
これは何かの展開につながるのか、はたまた、前回とはまったく関係のないはなしなのか。とにかく面くらってしまった。もはや、単体で見ることはできなくなったので、評価は控える。
「リリーはキツネのリュックになる」▲
言葉のインパクトだけが残る作品。コンテクストに通ずるかは分からないが、言葉を調べてみた。
「ルドン」ルドンという画家は知っているが、今調べた限り、手足のついた目玉に該当する絵は見つけられなかった。よって、鬼太郎のおやじと見るのが妥当なのであろうか。
「ブサイクなキリスト」まず思い浮かぶのは、おばあさんの描いたスペインのキリスト壁画。皿の上の花が絵の一部なのか、絵の前に置かれた実際の花なのかは、この小説からは読み取れないが、スペインのキリスト壁画には花は描かれていない。
「キツネのリュック」フェールラーベンのカンケンバッグにはキツネのロゴが入っている。この場合、狐がリュックになったということではなくて、本当のバッグという意味合いの方が強いのであろうか。(他の言葉についての見解は得られなかった)
そうか、目のないリリーさんと、目だけの目玉の登場。妖怪的な内容。これは「ゲゲゲの鬼太郎」を言っているのか。そう考えると何か寂しい。
「冷蔵庫の物語」●
生まれが月並みでない以上、冷蔵庫で終わろうが、別の何かで終わろうが月並みではなくなる。「月並み」という言葉が結局、作者の心情を吐露しているように思うのは、前作の戒めでもあると私には感じるからである。
少し前、冷蔵庫から出てくるドッキリがテレビであった。
手紙のやりとりや、別世界の妹が家電売場で冷蔵庫を担当しているのは滑稽であるが、独り暮らしの妹が家電量販店で働いていて、たまにメールをくれると捉えれば、それはごく当たり前の生活のようでもある。兄が妹の存在を認めれば、兄の葛藤はなくなるであろう。葛藤が消えれば小説とも捉えられなくなってしまう。このズレはとてつもないパワーをはらんでいる。それと、この作品には、ものすごくエロティシズムを感じる。「お兄ちゃん」ではなく「あにき」でもなく「兄さん」なのである。「兄さん」は年齢や性格を顕著にあらわしている言葉であるが、どことなくよそよそしい響きもある。そのよそよそしさに私はエロティシズムを感じた。
また、最近の傾向なのか「好き」という言葉が気にかかった。そこで飛躍する。宇宙人と言い当てた彼女に対してようやく「好き」と言えたのではないのか、と。掲示板の感想にあった「作者と読者の関係性」という解釈は案外的を射てるのかも知れない。物語をフィルターにした作者の内面の描写なのではないのだろうか。
ひとつ疑問が残るのは「はじめから私の気持ちを知っていたなんて嘘だ」の解釈がいまいちできなかったことである。はじめから知っていたという妹の言葉をそこまで否定する兄の気持ちが分からなかった。作者の返答を待ちたい。
「アニマ」▲
作者固有の湿気のこもった作品。前作、前々作を見ていて、この湿気は身体的な苦痛や欠損によるものであるとの認識を強くさせられた。今までの作品すべてにそういった傾向は見受けられるが、少しずつではあるが、吐き出されてきており、いい意味で中和しているとも感じる作品であった。
具体的な「何」に対しての展開かは不明であるが、言いたいことを認識させられるのは、ハイコンテクストだからなのであろうか。イメージや印象的なセンテンスが先走ってしまい、座りの悪い後味であ。猫に連れられた盲目の男。私とは誰なのであろうか。