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内田樹より

P57
自分の限界を越える、言葉は簡単ですけれどそれほど生やさしいものではありません。というのは、これが俺の限界だ、と言ってすらすらと記述できるようなものは・自分の限界・とは言われないからです。それはただの欠陥や不調にすぎません。欠陥が改善されたり不調が修復されたりすることはブレークスルーとは言いません。だって改善されたり修復されたりしうるというのは「改善後、修復後」のデザインがあらかじめ頭の中でできているからですね。改善前に頭の中で考操しうるようなものは限界とは言いません。

ブレークスルーという言葉から皆さんはつい枠組みにとらえられた人がその壁を打ち破って外に飛び出す…という図像を思いえがいてしまうんじゃないかと思います。でもそれはブレークスルーではないんです。残念ながら。

というのは脱獄のメタファーで考えたら 枠組みに捕らえられていた人 と破って出た人 は結局 同一人物だということになるからです。多少手足の自由は増し、可動域も広くなったにしても、ああ、ようやく自由になった、 と言っている私が 檻のなかにいたときの私と同じ目線、同じ価値観、同じ言葉づかいでいる限り、それはブレークスルーとは言われない。

ブレークスルーというのは、喩えていえば、日本地図だけしかもっていなくて、その地図上の自分の街の場所しか知らなかった人が、突然、東アジアの地図を差し出されて、君の街はここだよ、と差し示されたような気分のものです。

突然、あたりが開けたような感じがする。自分がどこにいて、どういう役割を果たしているのか、果たすべきなのか、それがそれまでとは違う、もっと広大な文脈の中で位置づけられる経験。それがブレークスルーです。それは脱獄して自由になったという感覚とは別のものです。脱獄者は壁を破っても同じ地面の上を、同じ眼の高さで走り続けていますけれど、ブレークスルーというのは、自分自身を見つめる視点が急激に高度を上げることです。自分自身を それまでより広い地図の中で、つまり それまでより高い鳥瞰的視座から、見返す経験のことです。

そのとき、自分をこれまでとは違う倍率でみつめている想像上の 鳥瞰的視座 のことを
メンター、と呼ぶのです。

ですから、それは厳密にいえば ひと ではありません。 私を高みから見ている機能 なのです。

ここまでの話で私が何を言おうとしているのか、もえみなさんにはだいたいおわかりにかっただろうと思います。 学び というのは自分には理解できない 高み にいるひとに呼び寄せられて、その人がしている ゲーム に巻き込まれるかたちで進行します。この巻き込まれ involvement が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の ものさし ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければいけません。自分のものさし を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を越えることはできない。知識はふえるかもしれないし、技術も身に付くかもしれない、資格もドレスるかもしれない。けれども自分のいじましい 枠組み のなかにそういうものをいくら詰め込んでも鳥瞰的視座に テイクオフtake off 離陸, することはできません。 それは領地を水平方向に拡大しているだけです。

「学び」とは「離陸すること」です。

それまで自分を「 私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた 決めつけ の枠組みを上方に離脱する ことです。





さて、この題名の、
ゆらいは
ナんでしょう?

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