完全に私の感想の書き方が悪かったと反省。すみません。
「読者が混乱しないように、人称を整える」というようなお作法を指摘したつもりではありませんでしたが、そうとしか読めない感想を書いてしまい、もうしわけないです。
「療養所」を読んでいて、まさしく「絵画の中に遠近法の技法が二つ以上含まれていると鑑賞者は錯覚を起こす」という作用が私の中で起こって、読む返す度に誰の視点、誰の発言かが変わり、書かれている受け取り方も変わります。アルツハイマーの方、高次脳機能障害の方、ダウン症の方、青年以外の、小説には登場していない「常に彼等を見守っている介護士さん」などを登場させても「錯覚」が解けず、結果として「良く分からない」のです。
前回書いた別の例で言うと、「小鳥は空もはらむ。小鳥は羽ばたく羽を使う。小鳥は小鳥の姿をまとう。三羽の小鳥にはそれぞれ特徴はあるが、泳ぐ小鳥は見つかってはいない。まだ見つかっていないだけなのか、そもそも存在していないのかの記載もまた見つからない。」を、「三人のアルツハイマーの会話」と捉えても良いし、「黒縁の記載のあったであろうページ」を探している人の視点であると捉えても良いし。
また、その後の文、「わたしは福士蒼汰と言う八十五歳東洋大学卒業であります」以後の会話文7行を、「三人のアルツハイマーの会話」と読んでも良いだろうし、「アルツハイマーと高次脳機能障害とダウン症の会話」と読んでも良いように思えました。
読む度に違った見方が出来るし、奥行きがある作品だと思います。
私が、「この視点をAとして、この会話をBとして、そうすると……」というような試行錯誤をしても、私の腹に落ちる解釈が見つからなかったので、結論は「良く分からなかった」という感想に落ち着くのですが。
たぶん、岩西健治さんは、意図的にそういう風に作っているのだろうと思っています。
「『よく分からなかった。』とバサッと斬ったのはいけなかったかと少しだけ反省しました
(そういう感想を作者が期待していたというか、想定していたと思うのは私だけ??)←反省の色無し」
と「感想追記」に書いたのは、こういった私の心情があったからです。
あっ。岩西健治さんは、意図的にそういう風に作っているのだろうと思ったのは、159期の「霊感テスト」の「パッチ」を使った数。
語り手が「六枚あるうちの三枚はすぐに使った。」のか、「すぐに使った」の中に友人にあげた一枚が含まれるのか。この読み方で、小説の前段とそして結末の奥行きが向かう先が随分変わるのいだけれど、どっちなのか、わざと書かなかったんだろうなぁ、っていう159期の先入観もあったからかも知れないです(私は数が足りない方で読む方が好きですが)。
ご理解いただきたいのは、「読者が混乱しないように、人称を整える」とか、そんなことを指摘したかったのではないということです。むしろ、どう読めばいいのか、解答的なのが欲しいなぁっていう気持ちで書いたつもりでした。
あと、私は難しいことを考えるのが好きではないので、小説とは何ぞや的な込み入った議論は……素通りさせていただきます……(切実)。