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 これはわたしの純粋な疑問のひとつである。
 ひとつの絵画の中に遠近法の技法が二つ以上含まれていると鑑賞者は錯覚を起こす。ひとつの方向から観ていた絵画が違う方向からも観れてしまうことに戸惑いを感じる。ピカソなどのキュビズムは複数の方向から観た像をひとつの画面にしたものであるが、絵画ではそれがまかり通っている。でも、小説の人称にこれほどまでに幻覚でなければならない理由は何なのか。複数の人称によって語られたものがひとつの小説になっていてもいいのではないのか。
 ハリウッド映画には定型になる方程式があって、それに当てはめれば映画は娯楽として完成したものとなる。所謂、起承転結のようにストーリー性があって、少し前であれば、キスシーンで終わるような展開に多少の違和感はありながら、これにて一件落着(古い表現ではあるが)のように完結できるものがハリウッド映画なのだと思っている。小説もまた、娯楽小説であればあるほど、そんな定型は必要である。ただ、それとは別の違う方向性があってもいいとわたしは考えている。
 小説の作法に添ったものはやはり小説なのだと思う。この短編では「1000字以内の創作小説」を作品として定義している。では、小説とは何なのか。あるところでは「散文で作成された虚構の物語」と定義している。小説と対局にあるのは随筆(エッセイ)や評論などである。最近のわたしも999文字にこだわって創作をしているが、こういった定型は散文ではない。ある字数に添った形で完成させる文は、俳句や短歌などと同じ韻律がある。ただ、そういったことも含めてもっと自由に表現できるものが短編という小説サイトであるとも思う。

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