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「桜謡」
ほどよい詩情の感じられるスケッチ。
冒頭の「見事に枝垂れ桜の下にビニールシートを広げた。」などの「見事に」は「広げた」に掛かるのか、単なる「見事に」と「見事な」の間違いかといったところだが、音感としては気持ちいいと思う。「見事<に>枝垂れ桜の下<に>ビニールシートを広げた。」。「見事に---広げた」と読んでも勢いが感じられる。
これらの間違いを、小さな間違いと捉えるかどうかで評価が分かれる作品だろう。
この作品は、書かれた言葉の作品というより、声に出された言葉の作品と受け取ったほうが作品自体の詩情を味わうことができる。

さらに擁護を強めるなら、別に誤字脱字は大した問題ではない。小説は文字に書かれた言葉の世界の文化だが、それ以前は声に出された言葉の文化が大勢だった。

書かれた言葉は後戻りができる故にリフレインや同じ単語を多用するのを嫌う。誤字脱字も一目瞭然だ。一方、時間とともに進むので後戻りができない、声に出された言葉は特段リフレインを嫌わない。むしろ単純な言葉の繰り返しでさえも、それが例えば朗読などであれば小気味良い表現として愛される。そして、小さな言い間違いなどはあまり気にしない。返って味になるくらいだ。
もちろん小説は書かれた言葉に属する芸術なので、誤字脱字如何で評価を決定するのが妥当ではある。ただし、そういった一見地だけでは多様な味わいを掴まえられない。
批判とは、それが何をどこまで表現でき、同時に何が表現できなかったか、の計測を行うことだ。ダメ出しのことではない。そして正しく多角的な批判があればこそ、新しい作品の可能性を示すことができる(もちろん実作の嵐の中でも新しい作品は生まれる。しかし残念ながら、正しい批判がなければその新しい作品の評価を見積もることもできない)

この作品の価値は詩情であって、詩情とは、ある事物とある事物を結び付けた時に生じる感覚のことだ。この作品の詩情は、桜を介して、花見や桜餅/着物の女/父親の死、の間に生じている。人間は、ある点とある点を結び付ける機械だから、作品という一つの内部に収められている以上、これら本来は脈絡のないものにも脈絡を発見してしまう。誤解の天才だ。読者はきっと「桜色の布地に、桜の花びらの刺繍」の着物に、作品の中での役割といった意味を見出そうとするだろう。あるいは父親の死と桜餅のエピソードに、好物以上の意味を捏造することも可能だ。ただそんなことは、詩情優位の作品では試みる必要はない。ただ、言葉から受ける感覚に漂わされるだけでいい。
この作品が与える価値は、これらの馴染み深さの感じられる詩情に惑わされることであって、誤字脱字を指摘するためのレッスンではない。

「小さな駅のロータリー」
マーケティングの教科書には「すべてを客に伝えるな」とある。これを悪どく守ればお客様の声では効果があるが実際には効果のない健康食品が生まれるし、器用に使えば夢の国になる。すべてを知ってしまった異性がいたとしたらその異性への魅力はなくなるし、秘密があればこそ不倫には下卑た興奮がある。人間は、すべてを手に入れたらもう欲しくはなくなるのだ。
「小さな駅のロータリー」の中核には「おばあさんとおばさん」の関係性の謎が鎮座している。そしてその謎をより謎めかせるための上品な手口が、この作品の文体と構成にはある。
嘘をつくテクニックは嘘1%真実99%で構成せよだが、この作品にもそのセオリーと同じく、謎以外の部分に謎めいたところはない。むしろ鄙びた風情のある平凡な光景だ。そしてさらに上手いのが、その情景に「あれではパソコンも入らないだろう。」といった考察を含ませることで、文章に抑揚を与えている。別の観点から言えば、この考察は「おばあさんとおばさん」が登場した時に、その様子を興味深く見つめる人物の性格に違和感を与えない効果も与えている。前半部分で人物のキャラ立てをしているのだ。
そしていよいよ「おばあさんとおばさん」が登場すると、この人物はより詳細に観察を進める。ただしここで、例えば「嫁姑かもしれない」「仲の悪い知り合いかもしれない」といった無用な情報を読者に与えたりはしない。与えることで読者の想像の余白を塗りつぶすような、凡庸な考察をこの人物は差し挟んだりはしない(実際は作者が差し挟ませないように構築しているわけだが)。そして、何かしら関係はあるのだなと知らせる「悲しげなしぐさ」だけが読者には伝えられる。
自然の風景から街の世界に溶けこむように漸進的にシーンが移り変わる構成も、優れている。人けのまばらな世界で突如生起した「おばあさんとおばさん」の物思わしげで濃厚そうな関係が、他人に満ち溢れているが故に希薄な匿名の人の群れの中に消える。そしてここで、当然のように「おばあさん」は文章から姿を消す。この作品が大きい失敗をするとしたら、ここで「おばあさん」の姿を描き、存在を読者に思い出させ、よりにもよって表情を描写して人物に陰影を与えてしまうことだろう。
代わりに、「威厳を保つように屹立」する「銅像」が描かれる。この人間と銅像の等価交換に作者の意図を汲むかどうかは読者の読書姿勢の趣味だが、私は皮肉を感じて気持ち良かった。生身の人間様と金属の人間様、他人様にとってはどちらも変わりがないことをみんな知ってるんだろうって。

「嘘」
太宰治の死んだすこし近くの公園で、お花見の時期、60歳かそこらの女性たちが「太宰治って何で自殺したの?」「女性関係じゃない? 着物で子供を散歩させてたのを見たって人が、かっこよかったって言っていたもの」と会話しているのを聞いたことがある。
滑稽小説家だった太宰治は現代に生きていたならおもしろブロガーになっていただろうし、きっとニコ生もやって出逢い厨になったかもしれない。ところが何故か現代では湿っぽい作家扱いになっている。吾妻ひでおがギャグマンガ家から失踪して今のポジションになったことに似ているのかもしれない。自分や日常を客体として捉え、そこに装飾を施すことでユーモアを私たちに与えてくれる才能は、破綻を生じやすいのかもしれない。ただ、彼らが生みだした作品も彼らの人生も、ともに愛らしいということは共通している。
そういった、どうしようもなく愛らしい個性というべきものがあって、それは人前に出た時に喋ることで真価を発揮したり、演技することで妙味を醸したり、偶さかに文章でそのキュートな世界が開陳される場合もある。「嘘」はそのベクトル上に位置する作品であると思われる。

「エロ」という単語が執筆当時にお気に入りだったのか、作品中に何回「エロ」を出せるかの、他人にはまったく関係のないレースを繰り広げているようにさえ読めるほど、「エロ」が冗長。冒頭部分では「急」もうざったい。
いちおう「吐きたくもない嘘を吐いてしまったようだったが、もとより私の給料の大半はそれで成り立っていたから」といった仕事に対する批評に重心を持って読むという読書態度は可能ではあるが、何も小説は社会と個人の距離を確認するためのツールでもない。作品世界に取りこまれた読者を突っ返す、「この先行き止まり」の看板代わり程度に思っていればいいのではないだろうか。
またそもそも、この「エロい弁当屋」全体を男の嘘、妄想と読む姿勢も一定数あるかと思う。
それはそれでいいが、この作品でリマークすべきは文体、選び取られた語彙、それによって構築された作品世界だろう。

文体は冗舌。考察が多い。
さして珍しくもない日常に過剰な考察を与えることによって、非日常感を演出している。
そしてその考察の基軸として使用され、作品全体の雰囲気作りを担っているのが、冒頭から連発される「エロ」だ。「弁当」という言葉も一筋縄ではない。性欲に近接した食欲に関する言葉で、なおかつ親近感もある。さらに「弁当屋」とすることで、この「屋」が金銭の授受を連想、また同時に安っぽさと古臭さを出している。冒頭で多用される「急」も入念に配置されている。「エロ」い「弁当屋」という欲望の坩堝の下地として、「急」という興奮を感じさせる状況が設定されているのだ。
弁当屋についても「手動」「六帖ほどの店内」といった描写、その弁当屋に対する考察に関しては「平日の昼日中、仕事の合間に見るものではない」「大抵の弁当屋がエロくないのはそのためだ」についても、「エロ」の効果を最大化するために、狙いすまし、用意周到の上で選択された語彙であることは間違いない。
ストーリーという観点から言えば、これは男が弁当を買う物語である。作品の味わいから言えば正直どうでもいい筋書ではあるが、そこでも作者は決して気を緩めない。手を抜かないのだ。買われる弁当は「茄子の味噌炒め」だ。「茄子の味噌炒め」について、油ぎった、先端の丸い茄子の形状をイメージできるかどうかは読者それぞれのこれまでの人生経験に委ねざるを得ない。だが、これがほっけや青椒肉絲であったら作品は失敗してしまうことは、理解できてほしいなと思う。
ここまでの段取りがあるからこそ、「アツイ」の聞き取り遅れや、大してぎこちなくもないのに「ぎこちない客」といった大胆な表現も許される。そしてここまでの構築技術があってこそ、「領収書を寄越さないあたりもエロかった。」というこじつけが読者に許容される。
しかし、末尾の「また少し、短く」に、もしかしたらと不穏な意味を期待してしまうのは、うがちすぎだろう。

「森を飼う」
小説は楽しむために読むのであって、そんなに真面目に考える必要はないと思う。文学と名前がつけられたりしているのが不思議なくらい。お偉いさんとお利口さん、そういった領土にあるのではなく、領土の記された地図をくしゃくしゃにして放り投げて、その横でふんぞり返って小説を読みながら、流れていく時間を忘れるためにある。
感想を書くことは、作品と自分の中の知識と経験とを結んで、さらにまた新しい物を作ることだから、それはそれで楽しみのひとつ。時間もかかるわけだが、楽しい間に死ねるならそれはそれで大層良いことだと思うけれど。
楽しみといえば、意匠のちりばめられたラップトップサイズの版画を眺めながら細い線を眺めてぼんやり考えることは愉悦のひとときであり、またこの「森を飼う」のように小さな作品の奥行きを考えたりすること以上に、現実の悲しき虜囚である自分を失い、我を忘れることはない。

「詩情とは、ある事物とある事物を結び付けた時に生じる感覚」とさっき書いたけれど、「森」と「飼う」のように、随分離れた物を結びつけると、かなり大きな詩情を感じることになる。作者が新しい結びつきを発見し、作者によって新しい表現が与えられ、それを読者が理解しようとすることで、初めて想像力が刺激されるわけだ。
真面目に理屈で考えれば、森は大きいから飼えない。そもそも飼うは、動物に使う言葉だ。森ならば、森を栽培するのほうが、飼うよりかは適しているだろう。いや、森を栽培するとは言わない。けれど森を育てるくらいの表現なら理解の範疇かもしれない。と、こんな風に感じるかもしれない。
ただ、あるがままの「森を飼う」を素直に受け入れた時に、それもアリなのかな、と胸が膨らむ。膨らんで、その未知のイメージに囚われて、あれやこれや考えているうちに、時間や現実の日常生活を一切合財に忘れてしまうわけだ。詩情の意味合いはここにある。

「水をやって、日にあてて、水をやって、日にあてる。それだけ。」は几帳面なテキスト信奉者にとってこの音に頼ったリフレインは嫌われるかもしれない。ただ「森を飼う」といった大きな新しさに取りこまれた状態の脳髄には、心地よく感じるリズムになる。
「ときどき息を凝らして観察する。」/「そこにあるのは生命の息吹き。」の二文の間に響き合う、息を抑える側と、息吹いている側の緊張感ある対立。「埃のように見えるのはたぶん鳥。」といった、「森を飼う」のイメージからスピンオフしたさらにまた新しいイメージ。だいたいにおいて、良いイメージというのは回転して子孫を残すものだ。
「騙されているんだよ」からの展開は、いかにも作為的で、「森を飼う」の良い気持ちに浸っていた読者としては、少々哀しい気もする。そうかこれは<息を抑える側>の物語であって、<息吹いている側>の話ではなかったのだなと。
夫を眺めながら「息を凝らして、観察する。」と、妻は2回目の呼吸停止を試みるわけだが、今回そうして眺めるのは、どんな息吹きなのかなと。
途切れた物語は、折れ曲がった道のようで、その曲がり角の向こうに何かが待っているのかもしれない、と考えてしまう。「朝起きたら食い尽くされてた、ってなってもいいのよ?」の先に、妻の悪意があると読むよりかは、生きるより死んだ方が楽しいのよ、とむしろ愛情深い優しさを伴って言っているように思えてしまった。それは「森を飼う」という新しい幻像が与えてくれた、ふくよかな広がりがもたらした余韻のせいかもしれない。

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