○わらさん、qbcさんへの返信
○#29サーカス、#26岩感、#27「愛なき者」の感想
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わらさん、qbcさん、感想希望ありがとうございます。それでは今期より作品の感想を書かせていただきます。よろしくお願いします。
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#29サーカス
後輩の結婚式における主人公「俺」の視点による人物批評の話、だと読みました。
この主人公はちょっとストレスがたまりすぎている気がする。たぶん根はいい奴なのだと思う――主人公は花嫁からの手紙で泣いてしまったり、そんなことを気楽に相談する相手もいれば、話を立ち聞きして加わってくるような友人もいる。
さらに大学時代にさかのぼると、「アルハンブラ宮殿の思い出」(感傷的だが名曲)を弾くために借金をしてまでもギターを手に入れたり、今回の結婚式もその借金相手でもあった後輩に、嫁と娘といっしょに招かれているのである。
――こういう設定だけを読むと、この34歳の主人公はとても幸福にさえ思えてくるというのに、話を読むかぎりでは、どうもそう単純ではないらしい。
まず、なぜか主人公は後輩に金を借りてまでギターを習ったことについて、「金を借りてしまった」ということに異常に執着して後悔している。ちゃんと金を返したならいいじゃないか、といいたいが、主人公の論理ではそうではないらしい。
私からすれば、そのおかげでギターもうまくなったのなら、この披露宴で「三島のおかげで俺はギターがひけるようになった、ありがとう。この曲を君たちに捧げます」とでもいえばいいじゃないか、と思うのだが、34歳のこの主人公がこだわるのはあくまでも金である。ここにこの主人公が社会生活で得たものと失ったものを想像することができる。だが、それはなんだかとても現実的でかなしいね。
しかし主人公の金をめぐる思いは「後輩への借金」のこだわりのみならず、出資者が後輩ではなく後輩の父親であったことが、さらに主人公には腹がたつことらしく、その父親をまるで恥をかかされた仇のように見つめていたりする。
冒頭に主人公は友人に囲まれる人気者だ、と書いたけれども、実は主人公自身はこの友人たちのことについても、まったく評価していない。一人は調子のいいおしゃべりものだと判断し、もう一人については話かけてきても無視している。
そして主人公は結婚式の主役でもある後輩夫婦を眺めながら、自分がすでに既婚者であることを忘れて、彼らが夫婦になるということについて、思いをめぐらしている。隣では子供を抱いた妻が、夫の無配慮さに呆れて文句を言うが、主人公にその声は届かず、このまま結婚式をめぐる描写はおわってしまう。
……これはちょっとさびしい話だな、と思った。話全体が主人公「俺」の一人称であるので、この小説を評価するには、読み手の私が「俺」の考え方や行動をどう思うか、ということが大きく関わると思うのだが、私はちょっとこの主人公「俺」の考え方は、どこか人間をなにかの枠に一面的に当てはめているように思えた。
もしも私がこの題材を元に話をつくるならば、
(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
(2)友人も三島夫婦もその父親も妻も娘も、でてくる人物すべてが主人公には不愉快に映っているが、それでは彼らの負の一面だけしか描かれておらず、全体のバランスが悪すぎるので、なんらかの彼らの長所を活かしたい。
(3)三島の親父はキーポイントだと思うが、活かされていない。たとえば彼がすでにボケてしまっていた、だとか、なぜ三島の父親は気持ちよく金をかしたのか、なにか活かしたい。
……ということを思いました。
#26岩感
今期、この作品の推薦感想に「ガーンときた」というのがあったと思いますが、この作品の要点を一言でピタリといいあてたすごいコメントだと思います。
私も「ガーン」ときました。話そのものは結構単純だと思う。別れ話をするために喫茶店にいる恋人たちであるが、男はなにか違和感を感じていて、それは喫茶店においてある「岩」が原因だったのであるが、よくみるとその「岩」はお地蔵さんで、別れ話がピークをむかえていくにつれ、主人公は自分自身がそのお地蔵さんになっていく心地がしてきて、しまいにはキレた女がスプーンを投げつけると、そのスプーンは地蔵になった主人公にぶつかって、ガーン、となる……。
多分、こういう話は、あまり1000字小説を読んだことのない、一般的な人がパッと手にとって読んだりすると、とってもウケるだろうし、他サイトのコンテストなどでは優勝したりするんじゃないかな、と思いました。オチがよめそうでよめないし、「こんな話を読んだんだけど」と、誰かに話せるくらいに、流れが整理されている。
ただ、1000字小説をこれまで累計で何百読んだのだろうか、という、ややひねくれた私などが読むと、「ガーンときた」だけでは物足りない。たった原稿用紙2枚半のなかなのに、そこに、「その文字数で大長編を予感させるような広がりや、複雑に織り込まれた伏線や、作者自身の深い観念が織り込まれていて、なおかつ単純であること」などなど、とても要求が多くなってしまう。
……そういうわけで、私はこの「岩感」は、本来なら投票候補になるほどのすばらしい作品だと思うけれども、深さにおいても広がりにおいても「爆弾彼女」に及ばないと思ったし、その「爆弾彼女」よりも文章に技とキレがあって、なおかつ読み手に、平凡な暮らしのなかに隠れているささやかなよろこびを意識させてくれた今期の「猫」、そして、なんといっても、「短編」では大人気だった<るるるぶ☆どっぐちゃん>の一連の言葉のマジックよりも私は、伝統を咀嚼したうえで自分の書きたいことをしっかり書いている、正統なシュールレアリスムを見事に1000字でつくりあげた今期最高傑作「rot ion ape = 面会 晩餐 仮」と比べると、やはりこの「岩感」はわかりやすぎた感が否めません。
私としては
(1)男は最初から最後まで受け身側であり、女は最初から最後まで怒鳴っている一本調子が気になる
(2)岩になるオチ一本だけで推していくのは……
の2点について考えました。蛇足ですが、私はこの岩男が
・ある日失業したばかりの主人公がうっぷんをはらすべく失業保険のもらえるあいだ身体を鍛えようとスイミング・スクールへ通う
・水泳後、室内プール付設のミストサウナに入っていたら練習場としてつかっている女子大水泳部のメンバーがやってくる
・男はおもわず顔を赤らめ、興奮を鎮めるべくお地蔵さんをイメージする。すると男の股間が岩となってもりあがり水着をぶちやぶる。その「岩の股間」に驚きながらも興味を持った女子大生の一人が男に「き、きっさてんにいきませんか」と声をかけ、付き合うようになるが「岩の股間」で男はモテまくり、
・いつしか出会った喫茶店にて女から別れ話を始める。女は「あんたなんか!」と何度もいいながら、店内に飾ってあるお地蔵さんをみるうちに顔を赤らめ、男はそんな女をみていると鉄のジーパンをはいていたというのに、岩股間が鉄のカーテンを貫通する。
・「お地蔵さんはみんなのモノだよ」という男の言葉でラストはしめくくられる。その様子をウエイトレスが柱の影からみている。
……という話がさっきから何度も脳内を画像付きで浮かんでくるので思わず書いてしまいました。
#27「愛なき者」
失業したが、退職金などで当面の生活に困ることがない男が主人公。悩みの種は食うことよりも、仕事をやめて(やめさせられて)はじめて自分が仕事以外の場で誰からも必要とされていないように思われて、それで自殺まで考えるがそこで両親の存在を思い出す……という話だとよみました。
書いてある内容はとても切実で、まさにこんな気持ちを抱いている人はたくさんいると思うし、これを読んだ私も、それほど他人事とはいえない。
でもだからこそ、あるがままをあるがままに書いても、私はそれでは人の心を揺さぶることができないのではないか、という気がする。
「泣きたい衝動は加速して、それがさらに思考を阻害した。そのうち、もう私は死ななければいけない、としか考えられなくなった。」
という部分などは、作者が直接書いてしまうと、読んでいる私は、たとえばもしも私が同じような状況であったとしたら、むしろリアルすぎて、ここから先を読む気がなくなってしまうだろう。
もう少しここのところを詳しくかくと
「泣きたい衝動は加速して……ってこんなん、自分で言うもんなん? 衝動は加速って、思考を阻害した……って、これって自分のこと書いてるんやろ? 自分のことを衝動加速とか思考阻害とか、そんな熟語で書くってなんかナルシストっぽくない? 私は死ななければいけない、なんか、そんなん書くのって恥ずかしいわ」
……というのが実のところ、私の本音の感想である。というのは、やはり、この話に書かれているようなことはみんな誰もがうっすらと言葉でない部分で思っていることで、それはこんなに簡単に言語化してほしくない。
「世界の中心で愛を叫ぶ」
という題名を本屋ではじめてみたときに瞬間に感じた恥ずかしさにとても似ている。でも、こういう直接的な言葉の痛さが一般受けする時代であるので、それを考えるとこの「私は死ななければいけない」みたいなのも今では普通なんだろうか、と考えると、なんとなくユーウツになってしまう。
本来、私はこのストレートさは嫌いではないがやっぱり扱っているテーマがナイーヴなことで、しかも最初から最後まで内面吐露に徹しているので、読んでいておもしろくなかった。ここまで深刻に悩む主人公が誰かが床におとしたバナナの皮でもふんでひっくりかえったりして、すべって転んでもまだ
「僕は……さびしい」
なんて呟く場面などがあったら、まだ私はその滑稽さに緩和されたナルシシズムを受け入れられるかもしれないが、笑えるところが少しもなかった。
ここに書かれたテーマはとても深刻で時事的であるので、もし私ならばこれを元にして内面の吐露部分をまるごとカットして、実際に主人公がおこなった行動の描写を丁寧にえがきたいと思う。
たとえば失業した主人公は、退職金もあるので、縁結びの神社にいった帰りに、スイミング・プールで泳いだりしたらどうだろう。するとそこに女子大の水泳部の連中がやってきて、ふいに股間が岩に……やがてモテモテになって知り合った彼女と結婚式をあげて、かつての先輩夫婦たちを呼んだ壮大な結婚式を行う結末とか……。
■読者の一人としての感想に徹したいのでHNは1002でいきます。よろしく。
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■「短編」掲示板へは平日のみ(例外あり)の投稿となります。返信は遅くなるかもしれません。
■「この作品を自分はこう考える」というやりとりについては、ひやかさずに加わっていただければ、と思います。どなたも参加可能のテーマです。
感想ありがとうございました。「サーカス」は発達障害ADHDの人の話し方が「まるでサーカスみたいにあっちこっちに話題が飛ぶ」というのをアイディアにしたお話でした。
そのアイィデアを枠にしてあとは自由に書いたので、自分の心象がそのまま文章になった感触があったのですが、ストレスがたまっていそうだったりさみしそうな感じがあったとのことで、自分の人生ってなんなんだろうな、やれんのかこれから、と思ったりしました。
話は変わりまして、1002さんだったら「こう書く」意見ですが、
〉(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
どうして1002さんは「作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべき」と考えるのでしょうか?
〉#29サーカス
〉
〉 後輩の結婚式における主人公「俺」の視点による人物批評の話、だと読みました。
〉
〉 この主人公はちょっとストレスがたまりすぎている気がする。たぶん根はいい奴なのだと思う――主人公は花嫁からの手紙で泣いてしまったり、そんなことを気楽に相談する相手もいれば、話を立ち聞きして加わってくるような友人もいる。
〉
〉 さらに大学時代にさかのぼると、「アルハンブラ宮殿の思い出」(感傷的だが名曲)を弾くために借金をしてまでもギターを手に入れたり、今回の結婚式もその借金相手でもあった後輩に、嫁と娘といっしょに招かれているのである。
〉
〉――こういう設定だけを読むと、この34歳の主人公はとても幸福にさえ思えてくるというのに、話を読むかぎりでは、どうもそう単純ではないらしい。
〉
〉 まず、なぜか主人公は後輩に金を借りてまでギターを習ったことについて、「金を借りてしまった」ということに異常に執着して後悔している。ちゃんと金を返したならいいじゃないか、といいたいが、主人公の論理ではそうではないらしい。
〉
〉 私からすれば、そのおかげでギターもうまくなったのなら、この披露宴で「三島のおかげで俺はギターがひけるようになった、ありがとう。この曲を君たちに捧げます」とでもいえばいいじゃないか、と思うのだが、34歳のこの主人公がこだわるのはあくまでも金である。ここにこの主人公が社会生活で得たものと失ったものを想像することができる。だが、それはなんだかとても現実的でかなしいね。
〉
〉 しかし主人公の金をめぐる思いは「後輩への借金」のこだわりのみならず、出資者が後輩ではなく後輩の父親であったことが、さらに主人公には腹がたつことらしく、その父親をまるで恥をかかされた仇のように見つめていたりする。
〉
〉 冒頭に主人公は友人に囲まれる人気者だ、と書いたけれども、実は主人公自身はこの友人たちのことについても、まったく評価していない。一人は調子のいいおしゃべりものだと判断し、もう一人については話かけてきても無視している。
〉
〉 そして主人公は結婚式の主役でもある後輩夫婦を眺めながら、自分がすでに既婚者であることを忘れて、彼らが夫婦になるということについて、思いをめぐらしている。隣では子供を抱いた妻が、夫の無配慮さに呆れて文句を言うが、主人公にその声は届かず、このまま結婚式をめぐる描写はおわってしまう。
〉
〉……これはちょっとさびしい話だな、と思った。話全体が主人公「俺」の一人称であるので、この小説を評価するには、読み手の私が「俺」の考え方や行動をどう思うか、ということが大きく関わると思うのだが、私はちょっとこの主人公「俺」の考え方は、どこか人間をなにかの枠に一面的に当てはめているように思えた。
〉
〉 もしも私がこの題材を元に話をつくるならば、
〉(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
〉
〉(2)友人も三島夫婦もその父親も妻も娘も、でてくる人物すべてが主人公には不愉快に映っているが、それでは彼らの負の一面だけしか描かれておらず、全体のバランスが悪すぎるので、なんらかの彼らの長所を活かしたい。
〉
〉(3)三島の親父はキーポイントだと思うが、活かされていない。たとえば彼がすでにボケてしまっていた、だとか、なぜ三島の父親は気持ちよく金をかしたのか、なにか活かしたい。
〉
〉……ということを思いました。
●或る投稿者さんへの返信
●qbcさんへの返信
●在る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章
○或る投稿者さんへの返信
84期作品19の感想を書いてくださってありがとうございました。私宛てのものだと思ってませんが、「気持ち悪いのではなく趣味が悪い」という指摘が見事だったので、触発されてあなた宛の返信をかきながら、いつのまにか書き足りなかった作品19の感想をかけました。ありがとうございました。
○qbcさんへの返信
感想への返信ありがとうございます。
〉どうして1002さんは「作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべき」と考えるのでしょうか?
質問ありがたいんですが、この質問の意図はなんでしょうか。つまりqbcさんはこの部分が納得いかず、この点をもとに私と文学的議論を始めたいということでしょうか。それとも、qbcさんも「俺もそう思ってたのだが」という点で、共感を高めるためとしての質問なのでしょうか。その意図が読めません。
ただ、qbcさんがどちらの立場であったにしろ、<小説家は登場人物たちを導いていくべきだ>ということをなぜ私が思っているかということを、私が「○○だからです」と、頭でっかちに言葉でそれらしいことをいっても、仕方ない気がする。白黒つけられるテーマではなく、私はそう信じているだけで、小説はすべて絶対そうでなくてはならないと思っているわけでもありません。私が書き直すならば、私の信ずるままに書くというだけで、「個人的に」思っていると書いたと思います。個人的な理由があるわけですよ。
さらに「私が登場人物たちを導いていく小説を書くべきだと思っている理由」は、私にとってメインフィールドである長編小説のなかに、その答えを物語という形で示すことが私の仕事だと思っているので、このことについて、今期の作品から離れて議論する気はありません。せっかくの質問いただいたのに申し訳ありません。
ところで、今期の私の感想を読んでいただいて私のスタイルは理解されたと思うのですが、私としては「利用できるところを利用して」もらえればいいと思っていますが、もしも私の感想に「人生を否定された」と思われるならば、正直なところ私の感想を求める意味がqbcさんにとって必要ないように思います。
こういう姿勢ですが、来期も私の感想を必要としていますか? はっきり言いますと、私の感想をまともに受け入れると現代の広く受け入れられるような小説にはならない気がしますし、そういうところまで承知のうえで、ニヤニヤ笑いとばしながら私程度の戯言からでも、すこしでも自作の向上のために利用できるところはないだろうか、という冷静さをもった作者であれば、私をうまくつかいこなせるであろう、と思っていますし、そういう才能を感じさせる少数の作者との作品のみのやりとりができればと思って始めたわけです。
ご検討ください。
(追伸)
「ストレスがたまっていそうだったりさみしそうな感じがあったとのことで、自分の人生ってなんなんだろうな、やれんのかこれから、と思ったりしました」と思われたということですが、私は今回は感想にかいたとおり、この作品を好きにはなれませんでしたが、
たとえば
「都会生活に疲れてそうな主人公の内面描写をとおして、本来賑やかなはずの結婚式場が影たちのサーカスのように読めてくる。この暗さから逃げず、真正面から描写していくさまはまさに現代版チェーホフの再来ともいえ、主人公の妻に対する冷たさこそが、結婚の本質を見事についているともいえて、その風刺加減に私はくすぐられ、おもわず隣にいる妻を反動的に抱きしめたくなってくる。これはすばらしい」
というふうに好意的に読む人だっているんじゃないでしょうか。というか、気分によっては私にもそう読めるわけです。作品の感想というものは本来、読み手の気分次第のきわめていいかげんなものだという前提で付き合っていただければ幸いです。今期私の感想が批判的に読めたとしても、それはそのとき私がそう思って読んだ素直な感想だったわけですよ。
○或る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章
とくに返信を求めているとは思えませんが、興味ある内容なので返信させてもらいます。
私があなたの感想に共感するのはこの作品の「趣味の悪さ」を指摘されている点です。ここに着目されたのはすばらしい。ただ、あなたと私の違いは、「趣味の悪さ」をどうとるかの受け取り方についてです。
文化というものは、上流階級に手厚く保護されたなかで守られて、汚れのない正統なものを主流において守る保守派がいるその裏側で、ジメジメして陰湿で股間の精液の匂いがただよってきそうなゲテモノであるにもかかわらず、原始人の祭りのような素朴な強さをもった裏・文化を影として共存させることで繁栄していく――と、私は個人的な持論として考えているところがあります。
つまり、美女と野獣、ジキルとハイドをひとりの人間が二重に併せ持つ、あるいはひとつの国家が光と影を内側にもつ、その矛盾の均衡をギリギリで保ちながら前進していくところにハラハラした緊張感や野性ある美しさがうまれると思っているわけです、人間も芸術も。
なので、ただかっこよさそうだとか、ただきれいだとか、あるいは正統な伝統の影にいることの切なさからの反抗というくくりを失って、ただたんにめちゃくちゃなグロテスクを堂々と行っていたり、サブカルチャーである自覚を忘れてメインカルチャーであるようにふるまう作品というのは、私は好きではありません。
そういう点でこの作品を読むと、なんともいえない淫靡さがありますね。その昔、土方巽というダンサーが、そそりたつ黄金ペニス(模造)を股間につけた全裸状態で踊り、自分の妻であった女を舞台にださせ、女の尻の穴にビーダマを入れては出して、その出し入れを観客にみせた――という作品があったそうです。
「鶏を殺さなければ前にすすめないんだよ」
といって、なぜかいつも舞台では生きた鶏をもって登場し、観客のまえでその首をしめたりするわけですが、その鶏についても、尻のビーダマについても、彼らはひとつひとつ彼らなりに(趣味は悪くても)自分の内側からそうしなければならない表現の理由があったらしくて、「なんとなく」とか「はやってるから」でではなく本気であったらしい。
今から思えば、なんとも「趣味が悪い」と思いませんか。ちなみに本など読んでると、その舞台をみるゲイの客たちは土方の鍛え上げられた肉体と奇妙な踊り、ジェームス・ディーンコンクールで2位になったという美貌、そしてそそりたつ模造ペニスを前に、みないっせいにコートに隠して股間をこすりだしたそうです。一方で、美人妻が性器をまるだしにしてビーダマをいれられる姿を目当てに通った一般客は女に興奮する。
そして、そんな性の乱れた饗宴を冷ややかにみつめながら、この趣味性の悪さこそが正統文化の影として美しい、と(思ったかはしりませんが)大古典主義者であった三島由紀夫が絶賛し、サドの紹介者としての澁澤龍彦が理論武装で支援し、小説家(哲学者)としては三流かもしれないが、当時経済雑誌やらアングラやら侍俳優の陰の支援者であり、まさに文壇のサブカルチャー作家・埴谷雄高も見にきて、以後埴谷邸の新年会に土方巽がよばれるようになったりする。
そういうわけで脱線してしまいましたが、正統なサブカルチャーというのはこれほど巨大な勢いを巻き起こすものなわけです。それは時代が違うから、今では無理、とかそういうことではなくて、今はサブカルチャーが恥じらいを失って、堂々とグロテスクだけであったり、妙にかわいこぶった少女がてきどにエロいことをいうだけであったりして、それを誰もが普通なこととして受け入れてしまうようになっている。そういう作品も多い。
この作品を私が正統なシュールレアリスム、と言って賞賛したかったのは、「修造」で滝口修造への敬意への表明をさりげなく(でもないか)まぎれこましたり(こういう照れ隠しの偽装こそ、サブカルっぽい)、手術台のイメージを拝借している点(こういうのをパクリといってしまうと、日本文学は漱石はスターンのぱくりで鴎外は……村上春樹はヴォネガットとブローティガン、芥川は古典?)。
そして、なによりも作者自身の暗い欲望の生臭さを見事に作品として昇華させている点。ここはアングラ作品を評価するときの決定的ポイントだと思うけど、趣味が悪く土俗的であっても、全体が生臭い性の匂いをぷんぷんさせていてもかまわないけども、それを貫く作者の目が、子供がへいきでスズメバチに手をだして握りつぶしてしまうときのような、何ものをも畏れない素朴そのものなまなざしを、感じさせてくれなくてはならない。
私はその点について、この作品はとても素直な思いが根本にあるように思ったわけです。そういう点で投票したし、これに匹敵するようなすごい作品があれば教えていただければ、と。
しかし、実をいうと、私の理屈からすればこの作品が正統的なシュールさを秘めた作品だとするならば、これは一般受けするはずがないわけで、あなたの感じた「趣味がわるい」という感想をみなから言われまくり、当然予選決勝など通過するわけはなく、一部の超強烈な熱狂的ファンによって(そしてそんな連中はもちろん投票などしない)、こっそりと支持されていく――それが正しいのかもしれず、私のこの書き込みはそういう点で矛盾しているかもしれませんね。
ちょっと書き込みすぎましたか。
〉このことについて、今期の作品から離れて議論する気はありません。せっかくの質問いただいたのに申し訳ありません。
はい。わかりました。
〉こういう姿勢ですが、来期も私の感想を必要としていますか?
はい。次期もお願いします。
うわあ、すごい。
ただ嫉妬心に駆られただけの八つ当たり感想に反応いただき、ありがとうございました。いえ、勉強になりました。
来期以降も熱のこもった感想をひそかに楽しみにさせていただきたいと思います。
もうなんというか言葉が出ませんし、嬉しいを通り越してただひたすら頭が下がるばかりです。
感想&投票ありがとうございました。
以下、ちょっとした補足です。
〉買いたての猫
これは「買ってきたばかり」という意味で使いましたが、「飼いはじめたばかり」と思われるかもしれないなとは思っていました。
〉「rot ion ape = 面会 晩餐 仮 」
ぶっちゃけてしまうと、今期はスナッフビデオをエサに電波女をゲットしたという話なんですが、このビデオ部分は全て嘘だということが言いたくて、それによってモニタの前にいる二人に目が向けられればいいなと思い、モニタを見る二人という構図からこの話と読み手という階層に目がいって欲しくて、同時に「じゃあビデオの中の人たちは?」という風に流すことができたら面白いと、そんな理由で付けました。
でもこれはある程度の感想が期待できる「短編」ならではなので、これも僕の個人的な趣味の域を出ていませんね。
こんな感じです。