設定としての「時間」を考えたとき、例えば、「時刻表トリック」のような数学的な時間設定、「時間のない世界」など小説の世界観をあらわす時間設定がまず頭に浮かびました。
euRekaさんは「時間」を設定だと定義していますが、年齢、性別、性格などを設定したキャラクターが何かを起こし、または巻き込まれ、それが一転し、オチとなる最後をむかえる、このような流れの小説を想定した場合、わたしの考える「時間」は、先に揚げた場合を除き、小説の中に既に存在しているものだとの認識をしています。
キャラクターが動けば、そこには必然的な「時間」が生まれ、小説の文字数によりその「時間」は膨張していく。この必然的な「時間」を、わたしは、設定としての「時間」とは違うものだと考えました。
草稿など案の段階で、この小説はキャラクターの一日を追ったものである、または、一生を追ったものであるといった「時間」の流れを考えることもありますが、それは、1000文字といった制約の中である程度制限されますし、もちろん文字制限がなくても、設定というよりは、むしろボリュームと捉えたほうが妥当だと思います。だからこれも、設定としての「時間」ではないと認識をしました。
また、小説を読むためには現実世界での「読書する時間」というものが必要になります。絵画などの視覚情報では理屈を通り越して一瞬で好き嫌いが識別できますが、文字である小説はある程度読まなければ、その善し悪し、好き嫌いは識別できません。わたしはこれが結構重要なことだと考えています。
「小説を読むためには時間がいる」
これは、設定としての「時間」や、必然的な「時間」とはまた別の、小説にかかわる第三の「時間」だと思います。小説という仮想の世界を、現実の「時間」を使って読む。「時間のない世界」という小説を「時間」を使って読む。上手く言えませんが、このことは少なからず小説に作用しているはずです。
「半畳一間の礼拝堂」をラムネを飲みながら読む。
「忖度な一杯」をコーヒーを飲みながら読む。
そのことで何かが変わってくるのだとわたしは信じています。
というような「時間」についてのわたしなりの解釈を書いてみましたが、もう少し煮詰めようかなと。