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euRekaさんに質問です。
面倒であれば無視してもらって構いません。


>やはり作品としての完成度がいまいちだと思う。

『W.W.』の完成形が見えているようですが、euRekaさんが考える『W.W.』の完成形とはどのようなものですか?


>存在の不安定さのようなものを提示している点は面白いと思ったが、記号化の追求により、そのテーマが破綻してしまったような印象を受ける。

記号化を追求すると、存在の不安定さというテーマが破綻すると考えたのはなぜでしょうか?





ここからは、私が予選で投票した3作品を、euRekaさんと比べて私がどう読んだかを書いていきます。
質問ではないので、返信は特にいりません。
(どちらかというと、euRekaさん以外を対象とした読み物)


>#3 緊急事態と私

>十代の頃の、ままならないことに対する苛立ちのようなものを表現したかったのだろうか。感覚的な表現が多いのは十代っぽさを出すための工夫だと思うが、少しわざとらしい気もする。もっと普通の表現(普通が何を指すのかは人それぞれかもしれないが、自分なりの普通)のほうが自然に見えるし、伝わると思うが。


本文の一部を拾っていきます。

 やはりというか、その日も青空で夏休み、ひざ上5センチスカート丈の私は、

これが、語り手が感じる自分のテリトリーと、語り手が感じる客観的なものとの基本的な距離感です。

 廊下にルの字で座って手を伸ばしたその先には赤いボタンがあって、ボタンを取り囲む赤鉄の物体には火災報知器と書いてあった。じりじりと暑くて、でも内またはひんやりとしていて、

火災報知器が語り手のテリトリーに入りました。続いて確認するようなタイミングで、自分のテリトリーである皮膚への意識が語られます。

 私の高校は校庭がとても広く、その周り木、木、木、なので、普通に友達と高校で話しているときでも、耳をかすめる遠くで鳴くセミの声が、私を一人にすることがある。

セミの声が、広い校庭の周りにある木を語り手に意識させ、この木の距離から見ると(客観的に見ると)、友達が消えて一人でいるような気分に語り手は(時々)なります。客観的に見た自分が孤独であるという感覚。

 何してんだお前、なんて呼ぶ人はもうここにはいないから。とっても悲しいことが起きたから。それは人が死ぬとかそういうたぐいのことだから。

自分を呼ぶ人はいないという孤独の感覚が続き、その悲しみが、人が死んだという事実を呼び起こします。しかし、その事実は語り手のテリトリーの中で主観的にふれられるだけです。自分の悲しみは分かち合えないというような孤独を感じているのでしょう。

 プラスチックを割って中の丸いばねをぐりぐりと押し込んだ。じりりりり、じゃないんだな、空気の濃度が濃いからなんだ、かんかんかんかん、くゎんくゎんくゎんくゎん、音が鳴った。一瞬ドキッとしたけど、そのくゎんくゎんは妙に私を落ち着かせた。

語り手のテリトリーに入っていた火災報知器の警報が、孤独の感覚の中にいる語り手へ呼びかけます。

「何してんだよ」
 げげー、これは本当に呼ばれたのだっ。振り返ると心底迷惑そうな顔して35歳の担任が近づいてくる。

警報をきっかけに語り手のテリトリーが拡大し、他人を認識します。

 逃げる私の右手をつかまれた。「つめたっ」手を放してくれた隙に全力で逃げた。なんだろう、もぞっとした手の感触だった。そして妙にねっとりしていた。気持ち悪かった。こういったもぞもぞから逃げ出すために明日から、いや今日から、私は、女子高生ちゃんとしよう。

他人から認識された語り手は、その事を気持ち悪いと感じ、他人からの認識から逃れるために、客観的な存在である゛女子高生゛になろうと考えます。
゛女子高生゛になれば、セミの声が自分を一人にすることがなくなると思っているのかもしれません。


>#4 性癖

>最後の方に出てくる「女の裸体が写っている」がポイントなのか。あと、やたらと「〜液」という言葉が出てくるので、それが性的なものをイメージさせているということなのだろうか。いずれにしても、読者に解釈を委ね過ぎだと思う。


メモの書き手は、白黒ブローニーフィルムの現像とプリントの手順の習得中にこのメモを記したのでしょうか? 一般的にはそうですが、はたしてそうなのでしょうか。
メモの書き手の嗜好(性癖)がうかがえるのは、この2つの文章でしょう。

 アイレベルで構える一眼レフに対して、ウエストレベルで構える二眼レフカメラは、直接、被写体に目を向けず、上から覗く形をとる

 18、印画紙に撮影した女の裸体が写っているのを確認する

この2つの文章を単純にくっつければ、上から覗く形で撮影した女の裸体の現像・プリントの手順をメモの書き手は記したことになります。
これがメモを記した動機ではないかと考えることができます。しかし、二眼レフカメラで女の裸体を撮影した後、それを現像・プリントする前にこのメモを記したのか、それとも現像・プリントした後に記したのかはわからないままです。どちらを取るかでメモの内容の味わいも変わってきますが、それは読者の好みでしょう。


>#9 1992年の伊勢丹ロックウェル

>ダジャレは「おやじギャグ」とも言うし、歳を取ってしまったことを暗示するためのものだろうと思う。そしてダジャレには、言葉の意味を一瞬だけ破壊して、物事をリセットするような効果もある(だから言われたほうは面食らってしまう)。
さらにカエルは、若い頃に抱いていた純粋さや誠実さを表しているものだと思うが、単に「若い頃を思い出せ」といったメッセージだけでなく、おやじギャグであるダジャレを連発することで、「歳を取ってしまったこともちゃんと認めろ」というメッセージも同時に伝えようとしているのではないか。そしてダジャレの持つ「意味の破壊」が、新しい人生を見つけろというメッセージにもなっているように思える。
この作品が優れているのは、そういったメッセージを、ダジャレやカエルのような暗示によって表現している点だと思う。メッセージというのは、直接的に表現しようとすると野暮になってしまうので。


ダジャレは言葉遊びの一種で、おやじギャグと揶揄されもするが小児もよく使う。ダジャレは語感を重要視するため、意味の通らないものになることもある。
語り手が今より闘っていた頃、カエルはもっとハードボイルドだったらしい。ここで言うハードボイルドとは、フィリップ・マーロウ的な世界の住人というような意味だろう(もっと乾いているのかもしれないが)。確かに、フィリップ・マーロウ物の登場人物は、意味を重要視する洒落は言っても、ダジャレは言わない。
かつてハードボイルドだったカエルがダジャレを言うようになったことは、意味を重要視する世界から無意味になりがちな世界へとカエルが移ったことを意味する。カエルが口にしたダジャレを語り手は支離滅裂だと言い、自分の現実もまた支離滅裂だと語る。
語り手に変化が起こる。カエルが現れて1時間もすればカエルが出て来ていたことなど無かったかのように忘れていたはずが、自分が今より闘い、カエルがもっとハードボイルドだった頃のように、カエルがまだいることを感じられるようになっていた。
そして、かつてのカエルが識るべきことと向かうべき道を自分に示してくれていたことを思い出した語り手は、カエルのダジャレもそうなのだと考え、スターバックスで見かけたダジャレに関係しそうな女に声をかける。すると、その女にカエルのダジャレと符合するものを見つける。支離滅裂だったカエルのダジャレに意味が生まれる。つまり、支離滅裂だった語り手の現実に意味が生まれる。

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