はじめまして。決して「荒らし」ではないと私は思いますよ。こんな風に「短編」を見ている人もいらっしゃるんだなあと感じました。自分が批判の対象として想定されている「書き手」だったとするといささか困るんですが、話を聞いてもらえると幸いです。
〉まず、タンソさんのような方は昔からいらっしゃいました。(中略)
〉いずれも短期間で訪れなくなっています。
そうかなあ、というのが私の正直な感覚なんですね。具体的に誰?と問いつめるつもりはありませんが、そんな人いたかなあ、というところです。
元来私という人間は物覚えがよくないのですが、考えてみると、去って行った人、というのはいつも、掲示板で華々しい議論の末、だったと思うんですよ。そしてそういう人たちは決まって書き手であり読み手でもあった。
純粋な読み手の方というのは姿を現さないことが多いので、「短編」の作品傾向に呆れ返って読むのを止めた、という人は居たのかどうか、観測する術がないわけです。ある意味チキンさんが初めてじゃないか。だから非常に貴重な存在だとおもうのですが。
で、
〉ご存じの通り「短編」は“書き手”の方の強いサイトですので
というのも、そうなのか? って感じです。(おっしゃりたいことはなんとなくわかりますが)たとえば私なんかもうずいぶん書けなくなって読み専になっていますけれども、別に差別されてるとも思わないわけで。
ただ言えることは、掲示板で感想を書いたり意見を述べたりする人は、やはり多かれ少なかれ「書くこと」に対して高い意識を持っていると思われます。この辺は個人的な見解になりますが、創作をするからには当然、普通の人とはちがった感覚を持っているわけです。
だから「短編」で書き手の方が目立つとすればそれはある意味必然かなと思うし、別に悪いことではないと思うんですけどね。
〉小説に限らず書き物というのは書き手と読み手がいてはじめて成り立つモノ
確かにそういう一面はあると私も思います。でもあえて言えばですね、書き手というのは創造主、クリエーターなわけです。極端な話をすれば、他者としての読み手が居なくても世界は成立します。映画ではそうはいかない、と言ってた監督がいましたが、小説は紙とペンだけで出来る仕事なんですから。
実は自分が書かなく/書けなくなってから、「短編」の作品を読むと改めてそういうことを強く感じるようになりました。これ全部一つずつ独立した小宇宙なんだ、すごいなと。まあこういう感じ方が書き手的なのかも知れませんけども。
そして小説の場合、書き手がまず第一の読み手になります。つまり自分の納得できるようなものでないと、書く意味がない。これはどんな芸術でもそうじゃないでしょうか。
〉曰く、そんな作品は書きたくない。もっと広い視点を持った方が良いんじゃないか(意訳)、等々
意訳ということなので正確に記させてもらっていいですか。まず、書きたくない、じゃなく、書けない、なんですね私の場合。選り好みしている余裕はないのです。
それから、もっと広い視点を、ということは、タンソさんの書き込みNo67を読んで、自分にも跳ね返ってくることとして改めて感じているのです。やっぱり自分だけ愉しんで書いていてはいかんなと。気づかぬうちに甘えが入っていたかも知れないと。
おそらくそういう緊張感は純・大衆を問わず誰にも常に必要なものであって、人の作品を読んだり感想をやりとりしたり、あるいはこうして文学論を交わす中で磨かれるのだと思います。
別件ですが露骨に書いてしまいますと、よかったらタンソさんも寄稿してみませんか、ということだったりします。チキン理論が正しいとすれば「短編」では書き手の方が強いのですから、書き手にならなきゃ勿体ない。