しばらく感想を書いていないから書き方を忘れてしまったような気がする。リハビリみたいな感じで、どこまで行けるかわからないが、書いてみようと思う。人に見せるべき物が出来るかどうかも問題があるが、とにかく一つずつ読んで、書く。
『〈叶う〉の反意語は〈破れる〉ではなく』(翻車魚さん)
勝手ながらタイトルの表記を微妙に変えさせていただいた。不等号は山括弧ではないので、縦書きにすると妙なことになる。
さて内容であるが、どう感じていいか戸惑うものがあった。ならば何も書けない筈であるが、敢えて疑問のままに投げ出してみたい。まず一つは、妙に国旗・国歌を重視している点である。たぶん全体の雰囲気からして、作者には政治的な含みはないのだろうと思う。それが気になる私の方に、何らか左寄りのバイアスが掛かっていると言われても仕方がない。しかしこの作品においては、障碍児が無邪気に語る将来の夢の中に、〈国家〉が相当な比重をもって織り込まれているのだということは、改めて意識しておいていいと思う。最後のシーンで、教師と子供が〈国歌〉を歌う、それが単純に「世界」という言葉に置き換えられているのは、私からすると微妙な違和感があった。
そういう引っかかりを別にすれば、小説としてはよく出来ていると思う。ただやはり、舞台を特殊学級に持っていったというのは相当な冒険で、実見が基礎に無ければこういうことは書けないなと私などは尻込みしてしまう。それはもちろん、想像力の権利というものでもある。
『あたしのすべて。』(いずみさん)
なんだか不思議と読まされてしまった。書いてあることはだらだらとした心象にすぎず、外界の描写もほとんど死んでいるといっていいのであるが、文章の力というのか、言葉の扱いが安定していて、文章の方は決して死んでいないと感じた。語り手の提起する疑問にも解答はなく、救いはどこにも見えないようであるけれども、この表現じたいに意味があるという気がした。
『この街からあの街へ』(尚さん)
一つまえの作品に比べて、こちらは不思議に読めなかった。語り手の心象が延々と記述されているだけという点では、似ているようであるけれども、なぜ読んでいるうちに苛々してくるのか、と考えてみると、一つの違いは、この作品には一人称があまりにも少ないからではないかと思った。『あたしのすべて。』では、「あたし」に結びついた表現が八箇所と全体の分量からみてもかなり多かったのに対し、この作品は「僕」が出てくるのは三箇所だけである。それが、語り手と外界の関係が固まっていない印象をあたえるのではないか。最後は、
「じわっと目からくる何かをこらえつつも大型のバスは忙しげに都市高速に去っていった。」
という文になっているが、これだと、バスが涙を流しているようにも見える。人称の扱いというのは難しい。省けばいいというものでもないようだ。
『come together』(公文力さん)
力の入った作品だと思った。小川国夫に『ハシッシ・ギャング』という作品があって、私は未読だが、やはり麻薬を扱ったすぐれた長編であるらしい。結局文学の機能は、一つには読者を別世界に連れて行くところにあるのであって、麻薬によるトリップというのはまさにそれを表現する一手段であるのかも知れぬと思った。この作品も、この登場人物二人の背後に、怪しげな印度かどこか(だと思ったが)の薄暗い一室の、艶やかに湿った空気が感じられた。
『とうめいにんげん』(Qua Adenauerさん)
私は清純派であるので「不純な動機」とは何だか見当がつかなかった。とカマトトぶってみる。それはまあいいとして、この少年が透明人間に「ただ、なってみたかった」というのも、スッキリしてはいるが、どうかという気もする。何かの少年事件で「透明な存在」とか自称していた子がいたなと思ったりする。
最後の一文は、一つのオチになっていると言っていいのだろうか。すなわち「誰からも見えない」と、「誰を見ることもできない」ということ。考えてみると人間どうしの交わりについて何か哲学的な深い含意があるようでもあるが、全体の軽めな雰囲気からするとそこまでは読むのは無理かも知れない。むしろ、「見ること」に関して与えられた最初の暗示が、最後にきて図らずも呼応しているようにも見える。
『危険地帯』(ヘコハムさん)
こちらはまるきりオチ一発勝負といっていい作品であろうが、残念ながらこういう世界観には私はあまり興味はない。だから個人的な勝手な考え方を書くが、命というものは不思議なものだという感覚がつねづね私にはある。たとえば、種の異なる命というのはいったいこの世界をどう感じているのか。中学生の時に「植物ってのは水飲んで日に当たっているだけで腹一杯になるんですねえ」と言った生物の先生がいて、なるほどなあと思ったことがあり、いまだに忘れられないが、要するにこの作品にはそういう、別の命を内側から生きるという感覚がないと思う。実際感じていればこういう書き方にはなるはずがないと思う。当然これは私の文学観による裁断であって、別のところでは別の評価があるであろう。
『そらいろ』(藤城一さん)
いちど読んだ時は、何を云いたいのかわからん、全く困った作品だと感じたのだが、いま読み返してみて、ああこういうことかも知れないと思った。この状況を分かりやすく解説してしまえば、察するに核爆弾でも投下されたのであるか。それでこの語り手はみんなと一緒に避難したわけである。夜逃げじゃないよね当然。
全体的な状況をわざと明らかにせずに、不明瞭にしておいて、手近な感覚から固めていくのは文学の手法としてありだと思う。我々の生きる現実にあっては、一言でまとめた概略なんてのは往々にして嘘っぱちだからである。ただ、固めていった感覚から、何かが透けて見えてくるともっとよいと思う。なぞと言って、私の読みがもともと間違えていればすべて御破算であるわけだが。
『ジェンガ』(masashiさん)
埴谷雄高が自分の文学の手法として、極端化とあと何かと何か、と言っていたような気がするが、なんでも極端に誇張して表現すると不思議に見えてくるものである。見えてきたからって何なの、という話は確かにあって、『死霊』だって私は尊敬しているけれども、評価しない人はしないのである。
この作品の場合、メインはたぶん、積み上げた麻雀牌を一枚ずつ抜き取る遊び(だと思うが)の描写と言っていいだろうが、そのまわりの枠をもう少し固めてくれるとよかったかと思う。たとえば彼らはいかなる関係で、なぜにこういう遊びをしているのか、暗示的にも分かるように書いてあると、極端化が一層引き立ったんではないだろうか。小説ってのはけっこう面倒くさいものである。
『人形と人形遣い』(西直さん)★
いやあこれは凄いですね。これに比べてみればここまでの作品は、作文以上作品未満と見えてくる。やはりこの作者の場合、うまずたゆまずの日々の錬磨があればこそだろうと思う。私も頑張らねばと思ったのが、実はこの感想を書きはじめた動機かも知れないのである。
さて内容については云々しないが、私が思い出したのは、いわゆる「人テイ(字が入れられない)」の故事であった。前漢の高祖の皇后であった呂氏が、高祖の死後、その愛妾であった戚夫人を捕らえて、手足を切り落とし両目をつぶし唖にした上で、便所に放り込み豚と称したという話である。テイとは「いのこ」という字である。話の方角はいささか違うが、外見は似ている。むしろ耽美的な所は谷崎風に濃厚で、とにかく凄いと思った。
『白い壁』(fengshuangさん)
「作文以上」に戻っちゃったかなあ。とちらっと思ってしまった。
今期の『とうめいにんげん』もそうだったけれども、子供を主人公にした場合、大人の読者に対して何をアピールするかという問題が出来てくると思う。それは別に何歳でも同じかも知れないが、子供の視点は必然的に低くて狭い。そこから何かを語りだして感銘を与えるには、何か深い所があるか、ぶっ飛んだものが要ると思う。偉そうなことを言って申し訳ないが、主人公の年齢が幼いから単純な書き方でもいいとはならないと思う。
『アダルトチルドレン』(qbcさん)
進化した猿の社会においては、コミュニケーションのために交尾を行う例も観察されているそうだから、この語り手の「親密になる方法」というシンプルな述懐は、たぶん正しいであろう。しかし人間の現実の社会においては当然これは公的な見解にはなっておらず、私たちは何となくそれを疑うことなく日常生きているわけで、改めてこれはどういうことなんだろうと考えさせられる。
個人的なことを言えば、最近の純文系の小説にはこういうAC的な女性が多いような気がして、ちょっと食傷気味な所もあるのだが、この作品は適度に引いてあってよかったと思う。最後はどう読むべきか、やはり男の身勝手さを感じたがどうであろうか。
『擬装☆少女 千字一時物語16』(黒田皐月さん)
言葉で組み立てられた小説という一つの構築物があるとして、作者というものはこれに対してどういう位置どりがあり得るのだろう、とよく考えるのだが、たとえば一つ前のqbcさんの作品の場合は、作者も出来上がった建物の外に出て、一緒に眺めているような感じがする。だから何を言われても作者じしんには直接には響かない。
たいていの小説の場合、作者は建物の中のどこかに居てお客を迎えているかと思うのだが、この黒田さんの作品は、作者は建物そのものに一体化し、どことも知れず遍在しているような印象がある。
この下手なたとえは当然、構築物そのものの出来不出来とはまた別の話で、作者の位置どりも、どこで悪いという話でもない。ただこの作品についていえば、登場人物二人は今は実際何歳なのかもよくわからないし、本心は一体どこにあるのかも感じとりがたい。ただ作者の濃密な情念だけが託された、いわば「萌え」によく似た世界で、私にはどうも気味がわるいと告白せざるをえません。
『誰も知らない』(たけやんさん)★
ふつう千字小説といわれると、私の勝手な分類だが、たいていの作者の行き方は二つに大別できるとおもう。一つは起承転結。序破急、などと真面目にストーリーを組み立てる。もう一つは気ままに言葉を重ねていって詩的な効果をねらう。いずれにも共通しているのは小説の中に「時間が経つこと」を無意識に織り込みずみであるということだ。
ところがこの作者さんは、基本的な作り方がたいへん独自で、他に類を見ないものだと言ってよい。この作品も、極端に引きのばした文章そのものも面白いけれども、これだけの情景を切り取って一つの作品とする発想そのものが実に新鮮である。前にも書いたことがあったかも知れないが、この作者さんは言葉で絵を描こうとしているのではないか。
『空が見えない』(ろーにんあきひろさん)
これは黒田さんとはまた別の意味で、作者の位置取りがきわめて独特である。こういう筆名でこういう内容を書かれるととうぜん意識するか、と考えてみると、しかしそうでもない。私語りは小説の中ではさほど珍しくはなく、テクストの語り手が作者とどのくらい重なるかなどということは、読み慣れた読者にとってはどうでもよい瑣事である。いわゆる私小説というものを考える上でこの辺は研究課題であるが、今はこれ以上考えている暇がない。
で、文章自体を読むわけだけれども、やはりちょっと不熟な印象が拭えなかった。誤植もさることながら、地名をカタカナにする文章ではないと思う。無理にポップがる必要はないと言いたいが、反面、そういう意識そのものが浪人生の痛々しさを表しているという理屈もあるだろうか。
初読の時からなんとなく、夕ぐれ時の情景を描いているのかと思い込んでいた。いまよく読むとそんなことはどこにも書いてなく、それどころか青空と明記されている。読者は勝手なことを読むものだと思うが、全体の雰囲気が、黄昏の疲れたような空気を漂わせているのかも知れない。そういう〈空気感〉が芸術では大切だし、実は意識して出すのはむつかしい。
『甘え』(佐々原 海さん)
こういう一人で立っていられないような姿の文章は、私など自分で書くのは恥ずかしいと思うたちだが、今日びの一つの心情を表現するものであるには違いない。ジュニア小説あたりから広まったと思われるこの手の「話し言葉」を女子高生は平気で作文に書くものだから、私はいちいち指摘するのにくたびれている。不毛な作業である。
私事はさておいて、少女漫画的によくできた作品だと思った。決して貶めて言っているのではなく、小説にはそれぞれの目指すものが異なってある。それは否定できないことで、別の視点から切り落とすことはできないと思う。たとえば、悔い改めた「アタシ」に「彼」が「頑張れよ」と一言だけ言い残し、いきなり最後の場面に行く。彼女何をどう頑張ったのか全くわからないのだが、それより大切なのはめでたしめでたしで終わることなのである。
『八巻無情』(咼さん)
ダダイズムですな。今どきここまで徹底して恰好つけた古風なダダは珍しい。アンドレ・ブルトンとか例に出せると恰好いいのだが、私の連想したのは吉行ヱイスケであった。周知のことかも知れないが淳之介の父である。
ダダであるからにはまっとうに解釈をつけようとするのも無駄なようなもので、なぜここで蛾が多量に発生したのかなど問う必要もなく、ただ喚起されたイメージの美しさを愛でればよいのであろう。突然にこの中国人らしい(と思ったのだが)女が現れたのにも理屈はなく、これにいきなり接吻するのも意味はない(と思うのだが)。ただ舞踏し、疾走する言葉の姿に見惚れていればよい。ちなみに「簡単服」なんて語もいい感じに時代錯誤である。
『エスカレータで指切断の事故』(わたなべ かおるさん)★
エスカレータという乗り物は今日び危険なものらしく、この感想を書いているうちに今度は某スーパーで男児が首を挟まれて重態に陥った。社会的先見性に一票である。ちなみに元気な子供は階段を上れという話もある。
「大説でなく小説」と言ったのは曾野綾子であるが、その割に本人の対社会的な発言などするのを聞くとずいぶん大上段だよなとも思うが、「大説」がわからねば小説の何たるかもわかるまい。人はとかく自分の身近な事柄でなければ利いたような事を考え、言いたがるものだが、これがいざ一人称・二人称の段階に降りてくるとがらりと変わるものなのである。大人にならないとそういうことがなかなか実感できない。中には歳ばかりとってもさらに実感できない人もある。
『虎ノ門』(宇加谷 研一郎さん)
感想を書くにあたって、『短編』の作者別インデックスから過去作品を一通り読んでしまった。作家研究にはまず全集に目を通さねばということである。
結論からいうと、宇加谷さんは大変なことを進行させていたのだとおもった。要するにこれは「猿」と「女」をめぐる短編連作という形である。そしてこの作品は大きな世界を一つ外側から眺める重要なピースと言ってよい。
この作品一つとして読むと、私は基本的に「私語り」が好きなので、語り手の生き生きとした感覚が快かった。最後に「小説の完成をあの猿と女に誓った」とあるからには、まだこのシリーズは続くのであろう。千字は千字で完結させべきだという意見もあるが、私はいろいろな試みがあってよいと思う。ぜひとも長編を完成させて頂きたい。
『嘔吐』(長月夕子さん)
これもインデックスで検索してしまった。あの『月下美人』は31期の優勝作であったか。連作というのは元来、登場人物たちに愛着がなくては続くものではあるまい。一人の人物と長くつき合い、自分の中で次第に育てていこうとする仕事には、敬意をおぼえざるを得ない。
一応、「真一」という名と、月下美人というシンボルが共通して用いられていたこと、さらに個人的な風聞から、『月下美人』の過去の話だと判定したが、改めて読み比べてみると、正直言ってあの真一さんの過去である必然性はあまり感じられなかった。むしろ独立した作品として鑑賞されてよいものかと思う。真一さんにこういう過去があったとして、嘔吐するほどの印象を持っていた月下美人を、長じてのち大切に育てるというのは? と考えてみると、表に書かれていない複雑な心情を読み込まねばならないように思うのである。
『松の木』(かんもりさん)
題材はよいのだが、書き方がどうもおもしろくなく、残念であると思った。最初の段落、「この話〜話を元に戻す」は全く無用かと私は感じた。分量に余裕があるなら格別、千字しかないのだからそんな無駄な脇道に入っている暇はなく、むしろもっと深い方へ入り込んで行ってもらいたかったと思う。
こんな事を言うほど私も小説作法に通じているわけではなく、私自身今考えていることなのだが、作者のある経験があったとして、これを書く時に、本当のことだけではどうも物足りないとする。それで虚構を導入しようとした時に、いったいどんな風にやればいいのか。
つまりこの作品で言えば、台帳の現物が出て来たことにするとか、この幽霊の正体について何か説明がつくようなアフターケアをするとか、こんなのは表面的だが、あるいは借金という現在の一般的な事柄について、もっと思索を深めていくという手もあるかも知れない。
『ロンドンコーリング』(るるるぶ☆どっぐちゃん)
ちょっとこの作品、私の教養では読み解けないような気がする。具体的に言えばロックミュージック? よくわからないが誰か詳しい人が担当して頂きたい。
いずれにしてもるる氏復活でまずはめでたい限りである。やはり『短編』にこの作風は欠かせないと思った。読んでも判らないのだけれど何だか安心する。
思わぬ長文になったがこのくらいで止める。一部の作品には理解が行き届かず、あるいは作者に対して思わぬ失礼もあろうと思うが、私としては久しぶりにまとまった文章が書けて愉しかった。人の作品についてというより、もっぱら自分を語ってしまったような気もするが、お蔵入りにするのも勿体ないので、投稿してみる。