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 これは私の個人的感想なんですけれども、「分からない」ということに対する構えの違いかな、ということが、段々わかってきました。
 タンソさんはご自分が「分からない」ということを最優先で考えてらっしゃるな、と思うんです。さらに言えば、自分が分からないものは、すなわち駄目なものである、と価値判断されていませんか。
 そもそも言語による伝達には、本当に百%「分かる」ということはあるのかな、と私は思ったりもするのです。分かったと自分で思っていることも、誤読である可能性は常にあるわけです。
 『メフィストフェレス』は私は真っ先に票を入れたので、改めて考えてみたのですけれども、確かに不可解な点が全くないとは言えない。たとえば最後の一文はきわめて象徴性の高い表現です。私は語り手が「食事に誘う」と言ってますので、若い男と歓談しているんだろうと解釈しましたが、ここには性的なイメージがあると感想で書いた人もいました。(もぐらさんでしたね)
 こういう場合何が正しいか、ということは「分からない」わけです。作者に聞けば答は返ってくるかも知れませんけれども、それも一つの解釈にすぎない。
 「分からない」ことは解釈すればよろしいので、それは読者の自由に任されているのです。解釈した上で、自分なりに共感できるかどうかが問題になります。私だって世間のOLの実態なんか知りませんが、こういう人は学校の教室にもいそうな、一つの普遍的な存在であると言えないでしょうか。
 小説というものは、ある特定の人間を、限られた場で描き出すのではありますが、実は個々の読者の共感によって自由に飛翔する可能性を持つものです。それがなければ『こころ』だって百年まえの単なる妄想にすぎない。
 それで思い出すのは森見登美彦という作家が最近、『走れメロス』など古今の名作を翻案した短編集を出したという話ですが、あれも、最近の読者はあまりにも禁欲的になったというか、自分に引き寄せて読む機能が弱まったせいかも知れないですね。
 もうほとんど雑感になってしまってますけども、「自分が分からない」こと即ち悪、間違い、不完全であるという考え方は、やはり学校教育の弊害かも知れないなあとも思うのですよね。昔の私も含めてですが、正しい答は一つだけ、全部綺麗に謎が解けてなきゃいけないというのは強迫観念だし、それが分かるように表現してくれ、というのは甘えにすぎないこともある。
 とは言っても世の中バランスは非常に大切で、読者の「分からない」を頭から否定すれば、これは作者の独りよがりにもつながるので、別にタンソさんの感覚を全否定しているわけではないです。ただご自分の「分からない」にも少し疑いを持って頂ければと思うのです。
 ちなみに私も『僕と猫』には首を傾げました。正直に言えば「分からない」のですけれども、そうは言いたくないので黙ってます。考えれば何か理屈は付くんじゃないかと思うのですが。

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