チキンさん、はじめまして。読み手のロチェスターです。
〉 “書き手”ではない一読者として言わしてもらえれば、別に作者が真摯に書いて無くたって、片手間10分で書いたって面白かったら別に良いんです。
とかかれてますが、それではまるで「チキンさん=読者代表意見」みたいじゃないですか。私も毎月短編を「読者として」読んでおりますが、おそらくチキンさんが「面白い!」と思われるのと私が「すばらしい」と思う作品はまったく違うものだと思います。
まず、本当に「プロっぽい」作品が読みたければインターネット上の投稿素人作品ではなく、まぎれもない文芸誌を読まれるべきではないですか? あるいは本を買って。そうした場合、チキンさんは正当な「読者」であり、お金を払うことによって「すき放題」に批評する権利を得るわけです。
ところがここは「短編」という名前こそあるものの、全員が全員プロ志向なわけでもないし、「読者」といわれたって別にお客さんなわけでもないわけです。そういうわけで「つまらん、つまらん」と文句だけ書く人は基本的にブログのあらしと同レベルと言われたって仕方ないんじゃないか、と思います。そのことは少し黒田さんにも言いたい。
それから「読み手を意識しない作品なんてマスターベーションだ」というご意見がありますけれども、えーと、マスターベーションって比喩が卑猥なのであんまり使いたくないんですが、それをまあ使わせていただくと、では読み手を意識した作品はセックスってことですか。でもですよ、誰でもそうだと思いますけれども一度もセックスの予行演習(まあマスターベーションですか?)をすることなく、いきなりはい本番でセックスってできました? (経験者だと仮定しますよ) マスターベーション抜きの(仮想演習なしの)セックスこそ、思い上がりも甚だしい、となりませんか。
あるいはマスターベーションじゃなく、まあ「愛」にたとえるとしてですね、誰かを好きになるとして、まず自分を愛すること、自己を強く肯定すること、これがあって初めて誰かを愛することができると思うんですが、どうでしょう。自分のゆがみさえ認められない人が相手の欠点をゆるしたりできるだろうか。
つまり、読み手に面白い小説を提供するにしても、まずは自分自身を面白くさせるための練習期間が必要だと思います。サイト「短編」投稿者はそういう時期にあたる人が多いんじゃないですか。もちろん、その時期を脱しているうまい人もいると思いますけどね!
だから、「つまらないものはつまらない」なんて言うならば、そのお好きなプロを読めばいい。「つまらない時期をいつになったら脱出するか。この点を伸ばせば彼はいけるぞ」とプロデューサーの視点みたいなのをもって読ませてもらうと「読者」として楽しいですよ!
それから「閉じられたムラ」と表現もちらっと拝読しましたけれども、だいたいこういうサイトで3年以上続いていて閉じられた、というのはひどくさびしい意見です。
とかく文芸サイトではかつて自分が言われたこと、抑圧されたことをそのまんま誰かに鬱憤をはらすことが多いように思われます。私もそんな感想を書いたことが
ある。そして今チキンさんに対して自分がかつて言われたことを言っている気がする。しかしまあ、この活字離れと一般的に言われている時代に散文サイトでやりとりをしている縁というのは大事にしたいものです。悪意はないつもりですが、せっかくなので同じ読者として「盛り下げる」ことよりも「どうすればいいか」と肯定側になりましょうよ。個人的にはとむOKさんの書き込みに深く感ずるところがありました。