名乗りもせずに批判をすることが不愉快だとの意見が挙がりそうですが、書き逃げはしないつもりなので、異論があれば是非書いてください。
「忙しい時の中にある優しい時間」
書きたいことはわかる。それは悪くはない。しかし、明らかに書き方が上手くない。基礎的なことなので、以下に指摘をしたい。
まず、題名。この物語にある「優しい時間」は毎朝のような「忙しい時」の外にあるように書かれているように見えるので、題名とずれがあると思う。
次に「ふと笑いがこぼれる嬉しいのではない。」は「こぼれる。」と句点を置くべきはずであり、さらにその後の「思わず笑ってしまった」と動作が重複しているので、後者は「笑ってしまったのだ」として笑うことの理由にすべきだろう。
「何も持たずに家を出たので携帯電話を忘れていた」としているのにも関わらず、喫茶店に入っているのだから財布は持っており、ここに矛盾がある。
それから「カップケーキを出してた」はここだけが話し言葉であり、しかも主語がない。「店長が」と主語を入れるか、それよりも「コーヒーに加えカップケーキが出されていた」と受動形にするべきだと思う。
「世界の時間と違い今の私の中の時間はゆっくりと進んでいく」、これはこの物語の核なのだがこれにも批判を加えさせていただくと、比較すべきは「世界」ではないと思う。なぜならば主人公だけでなく「世界」もこの日は休日であり、多くの人は同じように優しい時間を過ごしているだろう。だから比較対象は「毎朝この道を一生懸命走っている自分」にすべきればないだろうか。
他、誤字や改行の不統一もあるのだが、これについては取り上げない。
批判ばかりをしたが、ひとつ、その手法に驚いたことがあった。それは最後の「そんな日曜日の一時だった」である。「一時」は「ひととき」と読むものだが、実は同時に喫茶店でゆったりと過ごしていた結果「午後一時」になったということも織り込んでいるのだろう。これひとつだけでもこの作品は素晴らしいと言ってしまって良いと思うくらいに、素晴らしいものである。
「fffface」
最後の感じ方が本当に実感した感じ方のように思えて、わかったとは言い難いが、良いもののように思えた。
「おれ女の子のちょっと淋しそうな顔が好きなんだよね。」から始まる会話は、表情に関する会話をするために用意されたものなのだが、これはこれでひとつの題材になってしまうものなので、このような軽い扱いになってしまったのはもったいないようにも思えた。
「穴を掘る」
河原を掘るのは無知のなせる業かあるいは死体遺棄としてありがちなものの裏をかいたものなのか、いずれにせよ自分を過信してこのようなことはしないことだ。それから、女を横向きにすると肩が出ると言った直後に女を横向きにして子どもを抱かせたのは、いったいどういうことなのだろうか。そして、最後に女と子どもの頬にキスをしたのは自分の身体を覆い被せて露見を防ごうとしてそのときにしたものだとすれば、もっと良かったように思う。
それから、時間感覚をより表現するために最後の段落以外には可能な限り過去形にするべきだと思った。
「月」
人が死ねば話になるとでもお思いでしょうか。夜半の三日月は、魅せられる前に見ることができるかを検証すべきでしょう。
「潜入捜査官は誰だ?」
話が簡単すぎるように思えて、殺しの許可から電話での報告までにもうひと場面引き伸ばすものがあった方が良かったのではないかと思った。それから、このボスは何者なのか、警察において、それからマフィアにおいても、何者だろうかということが気になった。
「駆け落ちの振りが都合が良い。」
燃えるように想い合っているふたりではないと言う。それなのに、「修平は少し限、震えを覚えた」と「貞子の曲がらない背中が〜仄かな愛しみを映し出だしていた」のふたつから、互いに相手の出方を窺うような関係に見えた。逃亡をしたかったふたりだから、互いに相手を利用しているうちにこのような微妙な関係性になったのだろうか。書くべきことではないが、行く末が気になる二人である。
「ライオン宰相」
まあ、たまにはこんな話もいいだろう。
黒板に誤字を書いて生徒が修正液を使う、これがどのような光景なのかがわからなかった。ノートには鉛筆で筆記するものではないのだろうか。
「自由人」
描かれた景色だけではなく、書き方も散漫としているように見えた。それが互いに同調して、作品を形成しているのだと思う。しかし、「紅葉の道をのんびり歩くことも〜大事に思う僕がいる」、「就職予定だった僕に〜肯定するようにもなっていた」、「大学の先生になるのなら〜考え続ける人間になりたい」の三つは、ひとつの想いを描くべきではなかっただろうか。核となる部分まで散漫にしてしまっては、何にもなれないと思うのだが。
「color」
この作品を読んで、千字である性格の魅力を描き出すことは本当に難しいことだと思った。おそらくヒロの持つ魅力、主人公がヒロに感じている魅力は、この千字中で表せている程度のものではないのだろうと思う。それを私が読み取れなかったことが、残念である。
「パリの紅茶」
労働環境は悪く、また充実した日々であるのでもないのだが、しかし何か良いと思えたその理由がどこにあるのかが、わからない。<風が冷たい。今日も紅茶がうまい>と日記に書けるような主人公の純朴さが、良かったのだろうか。
最後になぜチョコレートが出てきたのか。猿?
「金剛」
何からしく書いたのだろうが、何かになっているのだろうかと疑問を呈したい。言葉遣いがつまみ食いのように思えたからである。
「争いのやまぬ苦痛に満ちた末世」の説明が次に続いているが、その中に「争い」がひとつもない。
物語が描いている人物についての呼ばれ方が「救世主」、「神の再来」、「上人」、「巨星」とされており、さらに語り手がその人物を指す言葉として「彼」、「聖人」、「金剛」を使用している。多すぎることは人物像をぼやけたものにしてしまう。少なくとも「上人」は不要であろう。
さらに宇宙と言えば良いのか、それを構成しているものとしては、「世界」、「天国」、「楽園」、「極楽浄土」、「アビスの世界」、「九界」、「地獄」があり、全体的に東洋的な言葉と西洋的な言葉が調和をなさずに混在しているように思える。
それから「鮮烈に世を駆け抜けた巨星の行方を辿る」の一文が以降の文と分断されており、これも不必要であるかもしれない。
そして、語り手が何者で、語り手が存在している居場所は彼の存在によってどのような影響を受けているのかということは、必要のないことなのだろか。この文章が、彼の存在を過去のものとして、それが永続しなかったこと、つまり彼が絶対的な存在でなかったことを証明してしまっているのではないだろうか。書くことによって貶めてしまうのならば、書かない方が良いのではないのだろうか。
「フアン・パラモ」
「断ち切られているから、境界は生まれない」とはどのような意味か。断ち切られているからこそ断ち切られたふたつの間が境界ではないかと思ったのだがそれは間違いで、断ち切られてはいない何かの中と外の間を指して境界と言っているようだ。
三浦氏は温感を描き出すのが上手いのだと思う。この世界は、生暖かい暗さを持っているように私は感じた。そしてこれは、前期の『闇夜の果てへの旅』の続編のように見えた。前作よりも生暖かさがあるが、それが返って闇夜の果てへ向かう途中のように思えたのである。
「母なる大地と 父なる空」
絵本的な創世記も、良いと思った。しかし、大地と空と星の位置関係が理解できなかったので、正しく読めたとは言えないだろう。
大地と空はひとつの星に属し、他の星がその星を眺めている。星の中で大地と空の間に雲が引かれ他の星は星全体が見えなくなってしまった、これがわからなかった。星々が流した涙は星に降り注いで大地の上に海を作った、ここでは空の存在が軽んじられてしまっているが、大地が主人公の物語であるのでこれが良いのかもしれない。結末がやさしかったことが、私は好きである。
「一日一日僅かながら」は「僅かずつながら」とすべきではないだろうか。
「擬装☆少女 千字一時物語18」
題名は女装の話としているが、本当にそうなのかと疑問に思った。
「聖家族」
落ちの意外性は認めるが、文章としてこれで良いのだろうかと疑問に思った。
「そして安定した家族関係を基盤にしないと浮気ができないと言った」の「そして」はどこからつながっているのだろうか。それ以前の文は浮気相手との会話であり弁解の内容であるが、この一文はそれとは違うものだろう。
「狡猾で小心者な人間でないと浮気はできない〜人間は誰でも狡猾で小心者だと教えた」は、人間は誰もが他人を裏切る可能性があり、浮気をするものだと言いたいのだろうかと思ってしまった。
食卓について花束が届くまでの場面は、ありえない心理ではない、地に足がついているようなものを描いていることが、上手いと思った。
最後の「我ながら陳腐でかわいげのある言葉を用意できたと思う」は、あらかじめ用意していたものではなくとっさに出てきた部類に入るだろうから、「用意」とすべきではないと思った。
「終末農園」
遺伝子改良を施して人間を装うほどになったトウモロコシは、果たしてどの程度の知能を持っているのだろうか。脱出を図るようなことがなさそうな彼らは、文字通りの植物人間なのかもしれない。それから、部長がどのような人物であるかも気になった。人の話をちゃんと聞いていないところ、彼もまたトウモロコシか何かなのかもしれない。
朝野氏は、狂気が麻痺した異常さを持った世界をさらりと書ける作家なのだと思った。
「八重のクチナシ」
わたなべ氏は感情を描く作家だと思う。氏の作品が好きになるかどうかは、描かれた感情が自分が好きなものかどうかで決まってしまうような気がする。
実をつけるはずのないクチナシに実がついたのは愛情によると言った場合と執念によると言った場合では、その真偽の程は措いて、見え方がまるで変わってくる。言葉ひとつでそのようなことが起こることを、この作品から教えてもらった。
「SOMEBODY」
自分探しは人それぞれ、答もまた人それぞれ。そのひとつの形が、良い穏やかさで描かれている作品だと思った。
「明日起きたら〜」の話が、これもひとつの答に見えて、面白かった。
「ラプチャー」
詩的と言ってしまうのも正しくないのかもしれないくらい、わからない。