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 色々書いたけれど、結局、第一印象や出だしの直感で決まってしまいます。なぜいいのかの理由は後付けでしかありません。

「おまじない。」
「おまじない」というタイトルから考えると、これは自身が自身に対して発した言葉のようです。ただ、最後に「彼はだれ」と投げかけているので、実際に誰かがいたのかも知れないとも考えています。
 過呼吸なのでしょうか。「辛くなったら、言え」と言っているので、やはりこれは自身へ発した(自身は自身のそばに常にいるから言える)言葉ともとれる。ただ、この小説で何が言いたいのかが分からない。発作に襲われた際の心理状態、もしくは、行ってしまった彼、どちらを主題にするにしても、今は状況のみが書いてあるだけでその先が見えなかった。

「黒の宣告」
 丁寧に書かれた小説だと思います。作者はきっと几帳面であるのだと推察しています。ただ、最後の安堵から恐怖に変わる場面などはどうもありきたり(助かったんだと思ったら実はそうではなかったという設定)で、結果、面白くはないようです。いや、面白いんだけれど新鮮な印象は受けませんでした。

「悪意にまけないでください」
 文字の使い方が面白いと思いました。「あたし」という響きは大人でない人物、水野先生は「私(わたし)」という大人である人物、優しい漢字を意図的にひらがなとしているのに「抽斗」という難しい漢字を使うリズミカルな文体。1000文字で切られた先に続くであろう会話。タイトルにある「悪意」が何なのかは現時点での読者(わたし)には分かりませんでした。
 前作をぱらぱら見て、学生ネタが多いなぁと思い、ブログを見て、等身大のことを書いている印象を受けました。結構、面白いものを書いているようです。「空をながめる」の感想や「冬の散歩」の感想なんかを読んでみると、作者の文体の特徴をうまく書き表していました。書ける人だからもう少し突っ込んだものを求めたいです。◎◎

「私の伯父さん」
 悪い印象はありません。小説部分は面白く読ませていただきました。しかし、陳腐な歌詞はいかがなものでしょうか。視界に入る文字列としてはカッコイイのですが、貴重な1000文字を割くまでの内容はないように思います。読者(わたし)には分からない意図が隠れているのでしょうか。◎

「溶ける」
「結婚」が溶け合うことと同一だとの考えには無理があるようです。と、いうか、そんな陳腐さが本当に必要だったのでしょうか。読者(わたし)の方がとっくにもう聞き飽きています。聞き飽きたことや聞きたくないことを書いたって響いてこないでしょう。使い古された言葉をはずすと、帰る帰らないの会話しか残りません。
「それが幻だと気が付く前に」と言っているのは、既に幻だと気が付いている証拠です。

 ああ 黄昏どきに 列車に乗って ああ 君と変わらぬ ああ 僕と変わらぬ その先の その世界に待っている 幻だと分かっていても そこに溺れてしまうことをいとわない 夕べに浮く月が闇の中 列車に乗って 終点まで行く ふたりの花はけして交われないから それを知っているから お互いを認め合うように 列車に乗って ああ 終点へと

「何処へ」
 前作の淡々とした流れの小説には好感が持てました。今回もよいと思いました。さくらとれんげという名前もいい。
「離したくないと」から最後までの文は、なくてもよかったんではないでしょうか。あるとしたら、もっと別な言葉でつなげて欲しかった。日常の何気ないやりとりの切り取り方は素敵だと感じています。
 とりあえず終点まで行くという行為は実在するのであろうか、ふと考えてしまいました。◎

「ハラスメント」
 前作にあった謎めいた部分が削がれてしまって、もちろん、よく練られているとは思いますが、残りませんでした。ここでいう虚無というものを作者は明確に捉えられているのでしょうか。虚無ではない言葉でそのことをもっとうまく説明できていれば、印象は変わったのかも知れません。何かすごく優等生ぶって、雑だけどあった面白みも消えてしまったように思います。

「花粉症」
 こじつけも甚だしい。何かしっくりこない。と、いう怒りが第一印象でした。前作もそうでしたが、作者は何かいいたいことがあるような気配は見せている。ただ、それは、作者自身にも明確になってはいなくて、結果として、エゴイズムの強い文を書いているように思います。すごく些細なことなんだと思います。不明瞭な表現で申し訳ないのですが、ボタンのかけ違いがなくなれば、もっと面白く読めると感じました。

「朝の訪問者」
 安物のエロにあるような設定でしょう。「古の都」には考える深みのようなものがありましたが、今回はありませんでした。キャッチーではありますが、キャッチーなだけのようです。

「想像と記憶」
 気になったのは「。」を付けない文章でした。何かの効果を期待した意図的なものなのでしょうか。あえて言えば、文章が無機質になり、感情のない説明に徹しているとも言えます。凄惨な現場なのに「くるくる」と言ってのける図々しさは面白そうです。ただ、この小説でも何が言いたいのかが分からない。想像とは何を。記憶とは何を。

「太初に音あり、音は言葉と偕にあり」
 よく練られてあると思いました。ただ、読者(わたし)の心には浸透しなかった。読者(わたし)は着想がイメージできてからパソコンの前に座ります。

「友情」
 なんかもう、ラップが頭から離れません。「〜良い?」「〜良い?」「〜いない。」「〜いない。」「〜出てこない。」「〜してならない。」韻を踏むリズムが歌詞のように響いてきます。
 それはいいとして、自殺ほう助とは悲しいものであります。やむを得ずの決断を余儀なくされるものです。ひるがえって主人公は開き直っています。助けたから悪くはないとでもいうのでしょうか。本当に救えたと考えているのなら、俺はどうすれば良い、などとの問いかけはできないはずです。俺がどうするのかも踏まえて、ほう助するはずです。それがなければただの突発的な行動になってしまいます。
 少し頭を冷やします。主人公にはそんなこと十分に分かっていて、その上で悪態をつかせているのでしょうか。悲しみを消すための悪態なのでしょうか。ならば、光とともに影も消えるべきではあると思います。影だけでは存在できないのです。

「悲しみのソーセージ」
 第一印象、何かいいなぁと感じています。僕の中の出来事をきっと周りは無意味だと思っていても、僕は真剣にその時々を生きている。最初の一文が最後の一文で漢字へと変わり、少しずつ完成されていくイメージを持つ。大人になっていくような。
 体を揺らす行為から特定のイメージを持ったので、少し調べてみました。自閉症や発達障害の子供たちの中にはロッキングという体を揺らす行為をする者がいるそうです。感覚遊び、緊張を和らげる、リラックスしているなど理由は様々ですが、最初に読んで、そのようなイメージを持って、それが実際にあることなのだと分かりました。◎◎◎

「暫定と確定」
 これを書く少し前、飼育環境に問題があるとしたニュースが流れた。年長のゾウである、はな子はまだ生きていたんだなぁ、と感慨にふけった。付近まで行く機会はあったが、ひたすら月曜日で園は休みである。だから、実際に見たことはない。

「銀座・仁坐・入座」
 だんだんと面白みが分かってきたと言うのか。これはエッセイなのでしょうか。創作小説なのでしょうか。毎回、銀座をテーマとすることには、それなりに知識と実地(飲み歩く)が必要であるでしょうから。ときどき、変な言い回し(この3月は先輩社員が〜卒業される方がいて)が見受けられ、足止めをくらいます。こういった文体では読みやすさは大切だと思います。

「午前5時」
 書くことで分かる。主人公に女装の趣味はないけれど、無理矢理にでも自分のものにしてしまうか。俺はクローゼットではなく、万年筆のキャップをしめた。
 前作を少し読み返しました。「となりに座った人」では10分早く起きることを書いていました。今作と何らかの関連はあるのでしょうか。この作者の作品は読者(わたし)には浸透しにくいと思いながらいつも読んでいましたが、今回は浸透しました。◎

「行路」
 走ることをひたすら繰り返し書き、追いかけてくる何かを明確にしないのであれば、ゴールなんてなくてもよかったのではないでしょうか。とにかく走って、それでも走って、走る、それだけでよかったように感じます。
 ゴールの向こうにあるものは何でしょうか。読者(わたし)にはひもとくことができませんでした。分からないまま完成した小説なのか、明確なものがあってもあえて書かなかったのか。「おそらく私は知っている」ということは知らない可能性もある訳です。なんか逃げのように読者(わたし)には感じました。

「takeo」
 立川談志が、言葉のイリュージョンについて語っていたことを思い出しました。ある言葉と、関連のない別の言葉をつないだときに漂うズレの面白さ、言葉のチョイスの妙を、立川談志はイリュージョンと呼んでいました。
 はじめちょろちょろなかぱっぱ、赤子泣いてもふたとるな。というような加速度。唇を舐める女のブルース。
 ただ、言葉遊びに振り回され過ぎているので、面白いけれど、票を入れるとなると別かなぁ。でも、面白いからいいか。◎◎

「半身、あるいは半神」
 半身の男のはなしを書こうとしたことは理解できます。でも、そこから何を言いたかったのかは理解できませんでした。結局、何も書かれていないのではないでしょうか。無意味な会話の連続としか捉えられませんでしたが、唯一「半分になったくらいじゃ死ねないんだ」の一文は好感が持てました。
 少女が半分になったということは、男は全身を手に入れたと解釈するのでしょう。半分の男に半分の少女が合体して一人前と捉えることができる。この場合、優位は男である。残り半分の少女が別の誰かと合体する場合、優位は少女でありそうだが、実はそうではなかったら面白そう。別の誰かが優位になると少女はこの世から消える。死ぬのではなく、消滅する感じか。
 乙武氏を思い出しましたが、実際は縦半分だと推察しています。

「女装」
 なんかよく理解できなかった。「珠里」とは「俺」で「理沙」と会話している。「俺」は不本意な女装をしている。素直に読むと、そうなるのだろう。何故、そうなのか(女装をしている理由)といったことを少し説明として入れると分かりやすくなったのではないでしょうか。まったく突き放すより、この小説は歩み寄った方がいいと思います。
 LGBTに関係しているのかとも考えたが違う感じなので、多重人格なのだろうかと思って読み進めてみる。俺の中には珠里と理沙がいる。もしくは、珠里の中に俺と理沙がいる。
 以前からこの作者の文体にはものすごく女性っぽさを感じていました。これは女性脳の仕業ではないかと直感したのですがいかがでしょうか。そこに因果関係があるのかは分かりませんが、無理に男を書こうとして、結果、男女どっちつかずの印象が強く出ているように感じます。男っぽさを演出しているようですが、挙動が女にしか見えないのです。

「家のするめ」
 まるで、小さな小さな宇宙の片隅の小さな小さな地球のぼくの部屋の出来事。「夜行船」も部屋の出来事。通ずるものは仄かな暖かさ。何なのでしょうか。悪ではないもの。作者はそのようなものを求めているのでしょうか。
 こういった暖かいものを書くのは、実はすごく難しいことなのだと体感として感じています。内面を荒々しくむき出しにしたり、負の感情を書くことは容易く、そして、それは、つまらなく、陳腐なもの(になりやすいの)です。ソファの君の隣に座る。希少な喜びを感じました。ただ、言葉と内容にズレが生じている印象です。紡いだ言葉には考え過ぎた感を拭えません。小説には一貫して暖かいものが漂っているのに、固められた言葉がそれを見えにくくしてしまったようです。

「反論」
 別に原発のことは書いてありません。時間虫という虫がいるということだけが書いてあります。少し考えさせられました。○○がらみの小説は押し付けがましくて好きではありませんが、これは好きです。潔いです。
 こういう話ってどこがどんな風にいいのかという感想は難しいようです。最初、唐突に時間虫のことを書いて、読者(わたし)は突き放されました。突き放されるとは、あえて面白くもないことを読まされるということです。あぁ、なんだ、と思っていたところにズドーンと時間の意味が見えてきます。なぜ、時間を食べるようになったのか、みかんや警官は蛇足のようにも見えます。でもこの突き放しが効果を生んでいるようです。◎◎◎

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