仮掲示板

Re:88期感想後半


前半書いたので後半も書きます。


〉#17 東京駅に似ている
〉また猿の話が!
〉あたかも心温まる話の如く書かれているが、ふたりの残された男が死ぬまでの年月のことを想うとひどく悲しい。
〉クセのない文体でさらっと読めるが、たとえば「青彦だから青いマフラーを編む」といった変てこなエピソードが挿入されるのがフックとなってしっかりと読み応えがある。

エンマ氏、で『ボヴァリー夫人』を思い起こしたり、けん玉をする少年、で平岡篤頼の「文学は剣玉である」という言葉を思い起こしたりしました。思い起こしただけで中身は何もありませんが。
エンマ氏、二人の女、若い機関士、二人の男……彼らの視線というのか思惑というのかが向けている相手と噛み合うことがないままに物語が終わるというのがこの作品の特徴で、けん玉をしている少年だけが確固とした何かのように存在しているところが印象的でした。

〉#18 夜光虫の海
〉観念的すぎて状況がわからないが「これは観念小説です、雰囲気を感じ取ってください」と言われれば「はい」としか言いようがない。
〉『夜光虫』という単語がたくさん出てくる割には夜光虫どうでもいい。
〉ただひとつ『星の皮膚をたゆませている』という言い回しはなんだかかっこいい。

夜光虫のいない満月の夜に浜辺に佇んでいた「ぼく」が、満月の明かりが落ちて絹色に染まっている海面を見て、失った女性のことを思い起こすお話かなあと思いました。
寄せては返す波のようにイメージが現れ、すぐに後退し、次に現れたイメージが前のイメージを上書きしていくという文章の運びですね。
二枚貝は「彼女」が「ぼく」にとってのヴィーナスであることをあらわしているのだろうな、とか、貝はやっぱり女性器の暗喩なのかな、とか。

〉#19 ニューデイニューライフフォーミー
〉無表情で抑揚ないままに、ひどくなまなましく恐ろしい内容の話を淡々と述べる三十代前半の女性を想起させる文体だ。
〉「五年前から異世界で生活している」という話はおそらく比喩なのだろうけれど、何を比喩しているのか読み取れず、果たして読み取れるものなのかわからないが、きっとろくでもない話にちがいない。救いがない。というか、救いを求める文章ではない。

従兄妹の七歳になる娘を攫いたいとは思う「私」だけれど、旦那と同衾している様子はなく、自ら子を生すという考えは締め出されている。
「私」の考えを占めているのは、世界の輪郭はどこまでいっても掴むことができないという事と、「未来に扇に広がっているふつふつと沸きあがる可能性に無頓着」ではない旦那の、その可能性の終わりをその目で目撃する事。
「私」は、一人の人間のその可能性の終わりを一度見届けなければ、可能性の塊のような存在である子を生すという行為に踏み切れないのかもしれない。
輪郭が定まらないと感じているこの世界でとりあえず確かだろうと「私」に思えるのは、今日も旦那の可能性が失われなかった、という事くらいなのだろう。

〉#20 幻想終末録『宵闇』
〉理解できなかったのでだれか解説してほしい。

「僕」パートは、『時計じかけのオレンジ』で主人公がうけた治療みたいなものかと。それで行政もこの刑の有効性についてなーんもわかってない、という世界観。ぜんぶ茶番だぜ、という話なんだろうと思います。
なんだかんだいってこいつ(僕)見えないことをいいことに女を襲うんだぜ、と『白の闇』を思い出した私は思うのでした。

〉#21 転校生
〉すごく嫌な気分になった。どうして小説を読んでこんな気分にならなきゃならないんだ。ひどい。こんなもの求めてない。
〉だれかを幸せな気分にさせるほうがはるかに難しいのだ。

あるあるネタ。

〉#22 あたしたちにあしたはない
〉さきほどの嫌な気分から復活した。たすかった。といっても楽しい話ではない。
〉たくさんのあたしとたくさんの倉井君とたくさんの誰かたちが、深みのない殺し合いの連鎖。つまり、深みがないのが救いである。
〉なぜ深みがないのかというと、「たくさんの自分たち」が存在することでアイデンティティが拡散しているからなんだな、というこじつけもできる。

タイトルは映画『俺たちに明日はない』のもじり。
ホーカ族、はポール=アンダースン&ゴードン・R・ディクスンが書いたSF小説(『地球人のお荷物』等)に出て来る異星人で、地球の小説や映画にすぐに影響されてその世界を本当の世界だと信じきって演じてしまう困った連中のこと。

〉#23 ひかり
〉パターン入りました、といった感じである。冒頭からしてかっこよすぎる老人の台詞と奇妙な佇まいの対比がまさに。
〉サンダーマン知ったおれは夜の空気のさなかに右手伸ばして、詩人でも作家でも音楽家でも扇動家でもないし左手首に十字架もないことを知りつつサンダーマンおれもなれるかなとためす。かみなりはおちない。

環境音楽ならぬ環境小説、という感じ。強引には読者の中に入って来ず、読者の思索を促進させてくれる、みたいな。

〉#24 ロストフの虎狩り
〉虎狩りもティーガー戦もどちらも似たような状況なので対比させて書くのは簡単そうだと思ってしまった。要するに、『虎』を『戦車』に書き換えただけ、とも言えるということだ。

セルジオ・レオーネの監督作として脳内上映すればこの執拗なカットバックも結構いけます。
定石としては、最後の会話は火縄銃時代のヴァーニャで落ち着くのだろうと思います。

〉#25 戦場で
〉これもまたパターン入りました状態だ。書きたいことを書きまくっている。
〉だがしかし、「これしか書けない」と「これだけ書いてれば幸せ」というのは紙一重であるよな。

『戦場のピアニスト』『スローターハウス5』『シンドラーのリスト』を思い起こしました(この作品とは関係ありませんが)。
どこかで見た読んだようなイメージをあえて積み重ねるのは「死」に関しては有効なのかもしれませんね。

〉#26 愛と言霊
〉なにを書きたいんだかよくわからなかった。焦点がぼやけて見えた。メタ的な言い方をすれば、焦点をぼかしたいがための書き方であるようだった。
〉なんとなく意味がありげな描写を連ねるとこうなるのだが、これをつきつめると#25のようになるのではなかろうか。

これ、舞台を上海にする、とかだけでも雰囲気が出るんじゃないかなと思いました。

〉#27 折れても二人
〉ほのぼのとした風を装ってはいるが、実はこのふたりの少女は生きることに絶望していて、「首吊りしたら死ぬ」という現実を見て見ぬふりをしながら、楽しいねーとか言いながら準備する裏側では、粛々と死に至るじぶんたちを冷静に俯瞰していて、ほんとうに死ぬつもりで、でも死ねなくて、新しいダッフルコート買ったけどやっぱりわたしたち生きることに絶望してるのよ、って話だと思って読むとせつない。
〉ことば通りの意味だと思って読めば、たのしい。

女子中学生二人が一緒に飛び降りて亡くなった事件を思い出して居たたまれなくなりました。

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