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 優秀な読み手による、書いているもの以上のものを生み出す「深読み」に感動する、という卑しい楽しみもそろそろやめるべきかなと思って、私がいかに中身のない話を下手糞に書いているかということを明らかにするため、「桜の樹の上には」の解説を書きました。
 頭から、本文、解説の順でいきます。

本文
 なにも見えなかった。それで、音がした、それは曾祖父の声で、顔はもう忘れた。幼い私は、夜の闇にいた、電気の通っていない町の、月のでない町の、何も見せてくれない暗がり、音だけが知らせてくれるせかいのひろがり、その矮小さの中にいた。曾祖父が、目の見えない体で近づいてくるのがわかる、のっぺりとした闇の中を、私から垂れた紐を辿るみたいに、まっすぐ来るのを。私の手をしっかりと掴む手、かさかさの手、冷たい肌の奥の温度、草履が土を擦る、その音、熱、感触、そこにせかいが集中した、せかいはひろかったのだ! だが、そこ以外のせかいのような何かのほうが、ずっとどこまでもひろく、せかいって孤独だな、と思ったのを覚えている。

解説
 「私」の幼い頃の回想。
 「私」は人工の明かりもなく月も出ていない町の夜の闇のどこかにいます。「私」の目には何も映っていません。真っ暗です。「私」には音だけがよく聞こえていますが、その音だけの「せかい」を矮小だと感じています。
 そこに、「私」の曾祖父が現れます。曾祖父は目が見えないのですが、正確に「私」が立っている場所へ真っ直ぐ歩いて来ます。幼い頃の「私」は目がちゃんと見えますが、この時は周囲が真っ暗なので盲目と同じ状態です。なので、「私」は曾祖父の接近を、目ではなく、耳や肌で感じ取っています。なので、盲目である曾祖父が真っ直ぐ自分のところへ来ることを「私」は不思議に思ってはいません。寧ろ、自分が曾祖父と同じ状態にあることで、曾祖父との繋がりを意識しています。
 曾祖父に手を引かれ、「私」は歩き始めます。相変わらず「私」は盲目状態ですが、曾祖父の手の感触やその温度、曾祖父が自身の力で歩いていることを証明する草履が土を擦る音だけは、はっきりと認識しています。「私」は、その感触と温度と音に、「せかい」が集中していることに気がつきます。「音」だけでは、「せかい」は矮小に感じられました。しかし、この時の「音」は曾祖父という存在が発しているものであること、握っている手ではっきりと認識できる「感触」と「温度」を持った存在から発せられているものであること、そして、そういった存在が曾祖父の他に無数にいると想像できること、その事から、「私」は「せかいはひろかったのだ!」と実感するに至ります。
 しかし「私」は、そう実感するのと同時に、「私」がこの時に認識している「感触」「温度」「音」以外のものが確かに存在していることにも気がつきます。そしてその「感触・温度・音=せかい」以外の「何か」の、「感触・温度・音=せかい」とは比べ様もない広大さを無根拠に感じ、その「何か」と比べて「感触・温度・音=せかい」は矮小であると感じ、「せかいって孤独だな」と結論づけます。

本文
 私が町を出たその日に死んだ曾祖父。あれから二十数年たち、この町に戻ってきた。目がほとんど見えない。医者は、私の症状と治療不能である理由をとくとくと説明する、が、私は理屈を知りたいのではない、体に不具合があれば医者に診てもらう、その慣習に動かされたのだ、その時、実に二十年ぶりに曾祖父のことがよぎった。
 生家の縁側で、庭と呼ぶには殺風景なものを眺めるのが好きになった。庭には太くて立派な桜の樹が一株植わっているだけ、家政婦の話ではもう少し暖かくなれば咲きはじめる、ひとつひとつが滲んで広がるこの眼界に、もうじき桜色が大きく加わる。
 桜は咲いた。私は昼ではなく夜の桜を楽しんだ、桜色ではない青い桜を、私は曾祖父とともに眺める。曾祖父が現れたのは一昨日の夜、定かでないが空から落ちてきて、花をつけた枝をひとつへし折ったのをこの目で見ていた。曾祖父は頻りに言うのだった、おい、動いてるぞ、鳴ってるぞ、虚空の闇をあちこち指して、鳴動だ、大鳴動だ、そう言うのだ。

解説
 「私」の現在。
 「私」は成長して町を出ました。その日に曾祖父は亡くなっています。この事から、「私」にとって「曾祖父」と「町」はイコールで繋がっています。
 町を出て二十数年後、「私」は生まれ育った「町」に帰って来ます。そのきっかけは、視力が落ちて眼科医を訪ねた時、理屈を説明するその眼科医を見て、自分は視力低下に至ったわけを知りたい一心で眼科医を訪ねたのではなく、視力が落ちれば眼科医を訪ねるという慣習化された行動に自らの意思を持たないまま従ってしまったのだと気がつき、その事から、自分の意識が幼い頃の体験(感触・温度・音=せかい)から離れてしまっていたことを発見したことでした。それに伴って、「私」は曾祖父のことを思い出します。「私」は幼い頃の体験を求めて、「曾祖父」がいた「町」に帰って来たのです。
 帰って来た「私」は、桜を眺めて過ごすようになります。ここでの桜は、梶井基次郎「桜の樹の下には」の連想から、単に「死」を意味しています。しかし、桜はまだ花を咲かせていません。未完成です。しかし、桜が咲いて完成したとしても、「私」には花の輪郭が認識できません。すでに物の輪郭がぼやけ、滲んだようにしか見えないからです。認識できるのは桜の花のその色だけで、その色だけでは、桜の美しさを捉え切れません。つまり、「私」には「死」が「死」として認識できないのです。
 やがて桜が咲きました。しかし「私」は、桜色には見えない夜の桜を好んで眺めます。それは、突然姿を現した、死んだはずの曾祖父と一緒に桜を眺めるためです。「私」にとって、花をつけた美しい桜などどうでもいいのです。曾祖父は、梶井基次郎「桜の樹の下には」で言うところの「屍体」と同じく死体ですが、曾祖父は桜の樹の下に埋まって「水晶のような液」を吸い上げられているのではなく、桜の樹の上の空から落ちて来たのであり、尚且つ「俺はあの美しさが信じられない」と「桜の樹の下には」で言われている美しい桜の、その枝をひとつへし折って落下して来たのでした。曾祖父は、完成していた「死」を欠損させて現れたのです。
 その曾祖父は、桜でもなく、「私」の生家でもなく、何もないところの闇を指差しては、「動いてるぞ、鳴ってるぞ」と、「私」には理解できない言葉を言い続けます。

本文
「となりの家に塀ができたんだな」
「……へえ」
「ん」
「あ、いいえ、その、どうなんでしょう」
「できてるよ」
「塀、あるんですか」
「へえ」
「……」
「鳴動だ! 大鳴動だ!!」
「(聞いてなかったのか、ああ、びっくりした)」

解説
 「私」と曾祖父の会話。
 話し出した方が曾祖父です。ここは完全に息抜きです。駄洒落です。
 ただ、曾祖父は盲目のままですが、見えているようなことを言います。反対に「私」の方が見えていないので、見えていない内容を喋っています。「私」は最後に目が完全に見えなくなりますが、この会話はその過程という位置付けです。

本文
 曾祖父、かんかんのうを踊る。すると、私にも鳴動が知れてきた、闇夜が、せかい以外が、私の肌をじりじり触る、触れようとするとしかし、そこは虚空になる、だからじっとする、そうする、と虚空が消える、闇夜が鳴動をはじめる、ひろい、とてもひろい、とてもひろいものが私に触れる、私もかんかんのうを踊ろう、どうやら目が潰れたから。

解説
 曾祖父が「かんかんのう」を踊ります。
 「かんかんのう」は落語「らくだ」に出て来るもので、その中では屑屋が死体を背負って、死体が踊っているように見せています。死体自らかんかんのうを踊るという洒落です。
 「らくだ」では、死体にかんかんのうを踊らせて家主を脅し、通夜に必要な物を出させます。曾祖父がかんかんのうを踊ることで、腰が重い「闇」が動き出し、「私」にもその「鳴動」がわかるレベルにまで具体化されます。
 この時にはもう、「私」は曾祖父が指差していた「虚空の闇」が幼い頃に発見した「せかい以外の何か」であることを感じ取っています。「何か=闇夜」は、「私」がじっとしている分には向こうから干渉して来ますが、「私」から干渉しようとすると、たちまち姿を消してしまいます。
 やがて、目が完全に見えなくなった「私」は、曾祖父と同じ条件になったと考え、かんかんのうを踊ろうとします。ここでの「かんかんのうを踊る」ということの意味は、曾祖父がかんかんのうを踊っていることから、死者へ近づく行為のことです。

 以上です。
 ご覧の通り、解説に書いた内容が本文に現れていません。これが現状です。しかし、仮に解説に書いたことが完全に表現されていたとしても、書かれている内容が「問い」ばかりですから、優秀な小説を読むような満足感はまず得られないはずです。その「問い」にしても素朴なもので、しかしこればかりは自分の限界だと思って諦めるしかありません。
 因みに、本文での読点の多用による不自然な文章は、言葉の表面をどんどん滑らせて、文章にも内容にも「中身が無い」という状態を作るためにやっています。その中身の無さを使って、死とか闇夜とかいったイメージを描くことに今は興味があります。

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