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 久々の感想は、やはり批判ばかりになってしまいました。感想への感想、もしくは評価などはいかがかと思ったことを、こっそりとここで言ってみます。

#1 ホームルームの時間
 『たま』という言葉からいろいろと連想させてしんみりした話につなげるというホームルームの内容は面白いし、このような授業のできる先生は良い先生だと思うのだが、面白いだけに粗を探したくなってしまう。私はこのホームルームを、小学校高学年のものと読んだ。それ以上では「きんたま」は無理があり、それ以下では「『玉』には命が」に無理があると思ったからである。しかしそうすると今度は、『魂』という漢字を使うことに無理が生ずる。
 柔らかい語り口、挙げられる言葉の順番、最後の疑問など、良くできた作品だと思う。しかし、他の方の感想にもあったとおり、ただ思い出しただけでは物語にならない。余分なものは見当たらないが、このままでは良くないことだけは確かである。

#2 思慮深い人
 緊迫感が足りない。私は読み終わるまで実際に地球が滅んでしまうのかと思っていたので、落ちという観点では成功しているとは思う。当たり前のことしか書いていないが、当たり前のことで読者を惹きこむのが巧い物語であり、それは悪いことではない。
 改善すべき点は、主人公が何歳かわからないことと、考えたことの順番。前者は第二段落前半の「家族と最後の晩餐〜家族の手料理だろうか」だけが所帯じみていて、これが作品の軽快さを損ねているように思える。後者は「ああ、どうすればいいんだ?〜」の部分と「いっそこの際、犯罪でも〜」の部分を逆にすべきだと思う。

#3 空のボク、大地のボク、海のボク
 題名と最後の一文が一致しないことが、空のボクだけが他のふたつよりも上位にいることが、それぞれが主人公の一面であるはずのことに対して良くないと思った。海のボクはきっと飲むとおいしいとされていたことから、まったく違う三つに例えておきながら微妙に関連させていると思い、これも良くないと思った。
 この物語は詩的なものだと思ったので、松本はるなに関する部分の描写はもっと現実味を薄くした方が良いのではないかと思った。「美人というよりとても可憐」と「なんだか不細工」を両立させるのは難しく、千字では無理だと思うし、「少しはにかんで、涙をこぼした」と描くためにはわずかでも理由が必要だと思う。
 それから、ピストルを持っているのが攻撃性のなさそうな「海のボク」としたことは、面白いやり方だと思った。

#4 キーボードの上の羽
 私には読めなかったと言うべきだろうか。「僕らはかなりウマクいってたと思う」と「そっと彼女を逃がすことにした」のふたつが揃うと自意識過剰の怖い話に見えるが、そう読むべきものなのだろうか。
 彼女がどのような大きさなのか、どこにいたのかよくわからなかったのだが、おそらくその理由は「右手の人差し指と中指の間に、爪楊枝のみたいな足が挟まっている」にあると思う。元々彼女の手が主人公の手に重ねられていて、主人公の背で小さくなっていったのだから小さくなる過程で動いていたようには思えない。それなのに主人公の指に挟まったのは足とされている。この描写がわからなかった。
 それから、中国人の友人からのメールを読むときに独りでいたい理由は必要だと思う。

#5 瀬戸際の主
 題名も第一文も異世界の発想も良いとは思うのだが、今ひとつかみ合っていないような気がする。作品を読んでもう一度題名を読んだとき、私はどういうわけか「限界集落」という言葉を思い浮かべた。そのような危うさが第一文にあり、ばあちゃんの描写にある。これを異世界と転化させるのだが、それが弱いのだろうか。
 川野氏の感想で言われていたが、言葉遣いが気になる。基本的に主語がないので、何箇所かある「自分が」などといった主語はすべて不要であるし、「自分の子供たちからさえ」と混同する危険性もある。それに時計の音は擬音語でなく説明的な言葉を用いるべきだと思う。読解を諦めた言い方だが、この雰囲気は三浦氏が上手く描ける分野だと思う。
 それから、最後の一文の優しさは好きだと思った。

#6 秩序を想う
 森氏は描写に特徴のある作家なので、それがわからなかったりすると好きになれなくなってしまう私を残念に思う。今回は、「小さな、硬いグレイである」と「確固としてしなやかな」の矛盾らしいことと、「口の端ではにやりと男を笑う」の部分で主人公はまだ現実に戻っていなかったのかと思ってしまったことがある。
 描き方の一部が夏目漱石の頃のように思えたが、その頃には旅客機はなかったので読み間違いに違いない。全体をそのように洗練すれば、それはそれで面白いのかもしれない。

#7 おおきいもの
 パパの台詞には漢字を使った方が良いのではないかと思ったのだが、意図があってそうしているはずである。
 これだけでは物語になっていない。主人公の寝顔をパパが見守る描写か弟が生まれた後の後日談のどちらかを加えるべきだと思う。あるいは子供の話の脈絡のなさを出すために、もう一回別の話に転換してしまうのも良いかもしれない。

#8 早春賦
 読み終わるまで私には落ちがわからなかったのでその点では成功だと思うのだが、それならばとりあえず家に帰れば良いだろう、と思いながら読んだのであった。人間世界として読ませる意図があるのだが、人間世界から人間だけが消えた世界であれば食べ物はいくらでもありそうな気がする。書き方で気になった点は、「ぉぉぉぉぃぃ」と小文字を並べて使うことが小説らしくないと思ったことである。
 描写、書いていることは良いと思うし、叫び方も作品に合っていて良いと思った。それから、「やがて伝わりくるその痛さ」は実はカエルだったことを知って読み直すと、必要な種をきちんと播いた、秀逸なものだと思った。

#9 時代遅れ?なアタシ
 ポップさを出したいのであれば、もっとしつこく書くべきだったと思う。どうにかならないものかと思っていたら、ラップとして読んでみたらどうかという考えに行き着いた。
 私は『短編』でこの作風を見たことがないので、新風が吹き込まれたように思った。

#10 仙丹
 仙道は何のためという問いのひとつの答え。
 雰囲気が良く出ているので、「天数(運命)」の説明が無粋に見えた。それから「璧銘真人」が「璧銘」と略されている部分があり、これは童子視点でないときにそうしているようであるが、視点が変わっているほどのことは起こっておらずまたその必要もないので、すべて略さない方が良いのではないだろうか。
 「万極書巻」はアカシックレコードに等しい。個人的な意見なのだが、宇宙におけるすべての事象を記録したものがその宇宙の一部として存在すること、それは矛盾したことなのだと思う。

#11 チョコっとした小説
 『短編』でまれにある短い作品を読んでいると、この作品の長さが半端に思える。
 それから、これは単なる意地悪であるが、このようなペンネームをみると縦書きにしてやりたくなる。

#12 掌
 ただ単純に幸せなものを描いただけと言われるかもしれないが、私はそういう作品は好きである。
 途中、「疲れ」、「安堵」、「充実感」、「寂しさ」、「むなしさ」と並べているが、「充実感」は負の印象を持たない言葉なので、ここに並べるものとしては良くないと思った。また、改行の使い方について、「電車のアナウンスが到着を告げた」は改行の必要がないと思った一方、最終段落の改行の使い方は良いと思う。それから、最後の「終」は無粋。
 さらに疑問に思ったことに、タクシーのない駅前など存在するのかということがある。

#13 ゴーレムを創る
 使われている言葉がわからず、調べようともしないのは私の怠慢として放置して。
 言葉でできたゴーレムとは、小説ならではの存在だと面白く思った。もぐら氏の『ことばくずれ』を思い出した。彼女の反応も面白く、主人公とゴーレムの同化による空虚化の結果である最後の一文の締め方も面白いと思った。実はものすごい技術か何かによってしようもないものが生まれた話であり、ものすごい技術をものすごいことにしなかった物語の作り方は、見るべきものだと思う。
 わかったようなことを言ってしまったが、実は私はこの作品を読めていない。

#14 擬装☆少女 千字一時物語22
 笹帽子氏の感想で女装の必要性がないとあったが、物語の焦点が定まっていないということではないかと思った。

#15 マイソフィスト
 物語に必然性という概念を持ち込むのは良くないのだろうが、私はこの物語を、このような展開になる理由がないのではないかと思ってしまった。吉田が嘘をつかなければならない理由もないし、主人公がそれを真に受けて小説を書かなければならない理由もない。最終段落の前までは良いのだと思う。最終段落は序破急の急に当たるものだということはわかる。しかしそれが、これなのだろうか。吉田の真似をして失敗したということではなく、吉田のソフィストみたいな部分を真似して失敗したことにすべきだと、私は思った。
 文体が硬めなのか柔らかめなのかよくわからず、「ソフィストみてーだと思った」の書き方がおかしく思えた。それから、「吉田の論理は大抵こんな組み立てだった」がどれを指しているのかがわからなかったのは良くないと思った。それが主人公が小説を書いた理由であるはずだと思うからである。

#16 僕の天秤
 突然ですが感想を中断します。

 私事ですが、昨年夏に仮掲示板にその名前が挙がった『鍛錬投稿室』に先日行ってきました。いくつか読ませていただき、私もひとつ投稿しました。結果は感想ゼロ(2月19日現在、作品一覧上の数字による。実際は一覧では計数されない評価対象外の感想をひとついただいている)というある意味伝説的な記録でした。
 『掌編の間』しか見ていないのですが、サイトに対する感想としては大きくふたつあります。ひとつは、おそらく『短編』より一桁多い人数がいるということです。私の勘では千人程度で、それ以上でもなさそうな気がします。もうひとつは『ライトノベル研究所』というサイトの一部であることから、読者の感想もライトノベルに対する感想であるように思えたことです。登場人物の容姿があるべきだとする感想が多く、また作品にしても感想にしても落ちの意外性を求めるものが多かったように思いました。
 この『僕の天秤』は『鍛錬投稿室 掌編の間』にも投稿された作品です。そして私はそちらですでに感想を述べてしまっています。それは改めて『短編』の場で再度述べるほどのものではありませんので、本作の感想は省略します。
 なお、黒田皐月は『鍛錬投稿室』でも酷評書きにしかなれませんでした。プラスよりもマイナスの評点を多くつけていたように思います。ここで述べるべきことではありませんが、彼のサイトでは評点をつけない感想である「評価対象外」を、『短編』では「なし」の投票を、もっと利用すべきではないかと思いました。

#17 タイム・ワープ
 本作は時間を越えることの難しさ、その論理を想像することの難しさを知って書かれている作品なのだろうか。どこにもそれを匂わせるものはないが、なぜか私は知っていて書かれているもののような気がした。その難しさをひとつ挙げると、行った先から戻るべき時間を判別する方法はあるのだろうかということがある。本作ではどのようにして未来に行き、戻ってきたのかはわからない。そこは読者の想像に任せ、書きたいことを書いた作品なのかもしれない。私は、単なる自己暗示と夢想だと読んだ。
 家に帰った後の母親の反応が理解できなかった。塾に行っていなかったと想像できるような時間になっていたからだろうか。さらにそれに対しての最後の一文も、間違っていると思う。これは口に出した言葉ではないのかもしれないが、これを口にすれば母親に怒られるはずである。それでも良いと思えるくらいに主人公が不安だったようには、見えない。

#18 横断者
 「そこに横断者がいたのだ」の部分、「あそこから抜け出したんだ」まで読んでようやく彼が歩行者用信号機の存在であることがわかった。これはすぐにわからせるべきことなのだと思うのだが、しかしどのような説明をすればわかってもらえるか、見当もつかない。これ以外の方法はないのかもしれない。さらに「目の前で立ち止まられてしまったら僕も立ち止まるほかない」はどうかと思った。私ならば目が合ってしまった場合を除いて、避けて歩くだろう。それから、青信号が体を動かせるとはどういうことだろうか。足を前後に開いたまま静止している存在ではないのだろうか。
 いろいろと批判したが、描写、心情の両方ともよく描けていると思う。最初の段落などは、そのとおりだと頷かされたほどである。

#19 桜の樹の上には
 三浦氏の作品には、温感が備わっている。それはただ文を書いただけでは実現し得ない、私の理解していない何かの方法によっているのだと思うので、羨ましい。そんな私なのでこれは読み間違いかもしれないが、最初の段落は光だけでなく声もないように思えた。主人公は、自分に触れるものの熱や感触と草履が土を擦る音だけで世界を認識していたように読んだからである。しかしこれに対して後の段落には声があり、それが合っていないように思えた。ただその声は「大鳴動」だけであり、それや祖父の存在がこの世ならぬ「せかい以外」なのかもしれない。

#20 猿の証明「2+2=5」
 猿の証明に煙に巻かれた気がすれば本作は成功、そうでなければ失敗だと思う。私はこの種の論の置き方が許せない種の人間であるのだが、そのことはさて置いて本作を批評してみたい。
 「上が人間で下がサルなのを」は最後の肩車で実現されており、この仮定は物語に活かされている。これは上手いと思う。さらにその状態を「1+1」としなかったこと、これも良い判断だと思う。なぜならば2と3の差は、4と5の差よりも比においてかけ離れているからである。そして途中で「1=2」としながら最後に「2=1となった一匹」として変化をつけたことも上手い書き方であると思う。ただ、「猿の恋人も人間と変わらないのは明らか」と「終わり」のふたつは、「よって猿の恋人も人間と変わらない」と「証明完了」と数学らしくすべきだと思う。ただし、そのために数学記号を使うとこれまでの作風が壊れてしまう。
 ところで、漢字の猿と片仮名のサルを使い分けた理由は何だろうか。そして使い分け方はこれで完全に合っているのだろうか。おそらく漢字の猿は固有名詞のように、彼の猿にだけ使われているのだろう。

#21 子犬のワルツ
 長月氏は人の気持ちを知っていると、私は氏の作品を読んで、いつもと言って良いほど、思う。だから以下に挙げる批評は、そのことに比べれば枝葉末節に過ぎない。
 主人公は二十二歳とされており、つまり教師一年目、社会人一年目である。それがここまで達観できるものなのだろうかと疑問に思った。五年の差、それは、たかだか、と言えるかどうかの分かれ目と言えると思う。比較の相手が十七歳、比で考えれば、それ以上の差を、たかだか、と言うことには無理があるかもしれない。しかしこの感慨は一年目の者が持てるものなのだろうか。三年目として、たかだか七年前と言ってしまっては、共感は得られないだろうか。
 それから、主人公から見て少年は大人びているとされているが、それに対して彼の逆立った髪を子犬に擬することは良くないと思った。「答えるときの彼の唇は思っていたよりずっと大人びている」とするよりも、少年らしい野心的な表情を見せた方が良いのではないかと私は考える。
 最後の一文、主題とは関係の薄い背景描写で終わらせたこと、このような手法をいつか私も使えるようになりたい。

#22 せぶんてぃ〜ん
 黒田皐月は未だ変われていない。従ってこの作品は嫌い。
 その私が未だできていない多くのことのひとつに、主人公の家族構成などを設定しておくことがある。主人公はこうして暮らしているが、家族はどこでどうしているのかということが、この物語については気になる。もうひとつ気になったことは、なぜ行動指針は第十八度なのかということである。qbc氏のことなので意図があってそうされているはずなのだが、それがわからなかった。
 それから、女子たちの個性を出すことが必要であり、そのために人物ごとに喋り方を変えているのだが、最後の落合百合香の喋り方は、なしだと思った。非現実であるからといって、非現実的なことを何でもして良いのではない。

#23 餅を焼く
 最終段落に書かれた主題は良いと思うのだが、物語はこれで良いのだろうかと疑問に思う。まず、主人公が置かれている時間がわからなかった。昭和五十年代は、主人公が中学生の頃なのだろうか。そして「今日」とされている時間はこれに対していつなのか。それから、その段落と次の段落の時間の前後関係が逆であることは、良くないのではないかと思った。
 また、最終段落で主人公は自らを「言いたいことを何でも言う人間だと思われている」としているが、そう思わせる材料がない。私はそれは必要なことであると思うし、この主人公は口数が多いと言うよりもむしろ物静かであるように思えるが、どうだろうか。
 細かいことをさらに言えば、「炭をおこして」は「炭火を熾して」ではないだろうか。

#24 未来の乗り方
 他の方の感想にもあったとおり、それでどうした、と思うばかりである。良いところをひとつ挙げれば、漢字や片仮名の使い方が安定していることである。「スピーカ」と「コンピュータ」のように語尾を伸ばさないことを統一していること、漢字の使い方に過不足がほとんどないことは評価できると、私は思った。「亡骸」が過剰であるくらいだろう。
 さらに難を挙げれば、「球体の外からは見えにくく、シートに座り画面を見ると」の表現は良くないと思う。主人公はこの時点で球体の扉を開けてコクピットをおそらく側面から見ており、それは外から見ているのとは違う。それから、シートに座らないうちに案内が流されるのはおかしい。もっと言えば、この体感ゲームの「コンプリート」とは何なのか、これは人生観の根幹にかかわることなので、そのような言葉を簡単に使わないでほしいと私は思った。

#25 幸福を促進できる?
 一読したときはその柔らかな感触が良いと思ったのだが、再読すると作られすぎた感がある。
 キスは飛躍しすぎていると、私は思った。キスなどは、物語を書く側とすれば手っ取り早い進展方法である。だからこそ多く用いられるのだが、本当にそれで良いのだろうか。もっと微妙な、不安定な、そんなことを使って読者をドキドキさせることはできないのかと、私は思うのである。そう思う私は、「先輩が気持ち良いと思うことなら、何でもしますよ」の台詞も飛躍だと思う。「先輩が喜んでくれること、もっとしたいです」、これではかえっていやらしいか。
 それから、「私は何となく、彼が何の用事で電話してきたのか分かった」は、何となく、は無用だと思う。これがある意図は、嶋野が実はもうこの世の者でないということを伏せることなのだろうが、このことははっきりわかることであって何となくわかることではない。それならば「彼が何も言う前から私は、彼が何の用事で」とすべきだと思う。

#26 泥鰌
 後でされた鑑賞や考察で駄目だとされるかもしれないと思えば現在の評価も気にはなろうと私は思うのだが、これはひとつの感性である。私は共感できなかった感性だが、しかしこのひとつの感性についてそう思わせるに足りるだけの描写がされていることが、この作品の良いところである。
 しかしわからないことが大きくひとつある。それは「記録」をしていたはずのことが途中から「小説を書く」ことに限定されてしまっているのである。小説でなくても、あるいはそれ以外の論文などでなくても、日記のような記録だけで地面の広がりを書くことはできないのだろうかと、私は思った。
 さて黒田皐月は、この眠る泥鰌と違いがあるのだろうか。

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