白山羊さんたら噛まずに呑んだ
お返事へのお礼をかねて、「エプロン、女装、恵方巻で三題噺」
「イン・ワンダーランド」
誰かを恋うるという気持ちはどのように芽吹き、どこへ向かうのか。たとえ幾つになっても、新たな芽を吹かせ、愚かさも過ちも気の迷いも、凡て呑みこんで花を咲かせる。そういうものなのか。先週、仕事の合間に女の子が、女子中学生のごとくそわそわとネットでお菓子のレシピを検索する様子を見て、そんなことを思った。
だが俺の時間は、そんな思いに微笑みかえす男の余裕など無いままに過ぎてきた。そして独り思考する時間の余りある現在、問うほどに腹が立つだけだということを、思い知る。朝から何本目かわからぬビール缶を捻り潰したその時、黒々といかつい電話機が佐倉の名を叫んだ。
「暇だな?」
「忙しい」
俺は懐中時計を取り出してみる。以心電信。
「ちょうど良かった。今から来いよ」
言っても伝わらぬものが、言わずに伝わるはずもない。ダイヤルをげたげたと回してせせら笑う黒電話に、俺は受話器を叩きつけた。
玄関で出迎えた佐倉の姿に、俺は噴いた。大きく胸元のあいたミニのワンピースを着て、兎のような純白フリルのエプロンからもっさりと脛毛をはみ出させていた。俺は奴が職場の女の子に混じってニキビがどうのと騒いでいたのを思い出したが、因果関係を推測することを脳が拒否していた。
「エプロンの可愛らしさに合う服が、これしかなくてな」
昔からこういう奴だった。形から入り、白を赤と塗りこめる論理に暮らす、傍迷惑な輩だ。
キッチンを見てまた仰天した。黒魔術か陰陽術か。チョコのこびりついた泡だて器、クリームのはみ出たボウル、トランプのように揃った海苔、乾瓢、胡瓜、さくらでんぶ。和洋折衷、部屋中でチョコと煮しめの甘い匂いが混線していた。
「こっちに来いよ」
佐倉はくるりと背を向けた。でんぶの陰に椎茸がちらりと見えた。
案内されたリビングのテーブルには、わざわざ買い揃えたらしい二人分のカップがあった。俺の目は逃げ道を探して泳いだ。だが新品のカップの脇に、太い指の跡がついたいびつなチョコと、すっかり冷めた紅茶のポットがあるのを見つけてしまった。床の上にはエプロンを包んでいたらしい小奇麗なラップが散乱していた。
佐倉は黒々と長い一本を掴むと、俺に差し出した。
「幸せになろうぜ。一緒に」
「ああ。幸せになろう。お互いにな」
俺は念のため少し修正を加えた。
二〇〇八年二月三日、午後四時。南南東に向いて黙々と咀嚼する僕たちの右顎を、低空の太陽が照らした。
(了)
噛まずに呑んだものでテーマがちゃんと咀嚼されていませんが。