#1 怠け女
反応の薄い女から、徐々に生命反応だけで「生」を見出そうとする、死生のお話。やろうとしていることはわかるが、これだったら植物人間でも良かったんじゃないか。あと、主人公はおそらくわざと女の意識を描写していないけど、死生を書くには片手落ちのように思えた。
#2 蜘蛛
蜘蛛の子を散らすという言葉から発想を得たのだろうか。死生のお話。最後なぜ自嘲するのだろう。自分のしたことに対してだとしたら全体の狂気がしらけてしまう。そもそも何で乾燥させる必要があるんだろう。自嘲できるほど冷静なら、乾燥なんて面倒なことせずに別に妻と一緒に捨ててしまえばいいのではと思う。
#3 ぬるっと暑いこんな日は
日中だろうか夜だろうか、ということが気になった。熱帯夜というCDをかけているのでたぶん夜なんだろうけど、昼だったらだるさがもっと強調されて良かったなというただの願望です。
#4 ドライサーディン
暇なとき踊る、って結構いろいろなところで見かける表現だけど、その後実際に踊ることってあんまりない気がする。ああじゃあもう、踊るか、ってんで、それで踊らない、なんかプチ大喜利のような。中学か高校か、ダンスが体育で選択科目になった気がするので、それ以降の世代なら踊ろうかといわれて、じゃあ、って言うことになるのかな。でもこの作品での踊りは、テレビとかでやっているような複数がやんややんや踊るやつのことではないんだろう。
「指を意味もなくぱっちんぱっちん」させるというの、既視感ある。小説でしか出てこない表現だと思う。
#5 おでんわ
意味がわからないはたぶん褒め言葉なんだろうけど、狂ってるって、その中で言っちゃだめなんじゃないかと思った。
#6 桃太郎
最後昔話に回収されないことの不安と孤独。途中「当然のごとく」老人になっているので、物語の力が強い世界のお話だということがわかる。その後、桃柄は大洪水が来て箱の中の自分だけが助かってもいいし、巨大な滝壺に落ちる動画を撮ってYoutubeにアップロードしてもいい、そういう意味で自由を感じさせる作品だと思う。
#7 君が好きで。
思春期の思いと独りよがりが一貫して書かれていて良かった。プラトニックな流れだったのに、君を「犯す」という言葉が浮いている気がする。君に母性であるとか、優しさを所与のものとして認めているのに、別に犯すなどという言葉を使わなくても、受け入れてくれればいいのではないかと思った。ただ、主人公(中学生?)がその限られた語彙の中で性行為を指す一般的な用語として犯すという言葉を選択しているのであれば、それは成功していると思う。
#8 ぼたんゆき
みそ汁を食べ物としてでなく飲み物として供して、飲んでいる。我々が知る味噌汁とは別のものだろうか。黙って味噌汁を飲むといっても、熱いだろうに、ずずずという音はしないのだろうか。しているとしたら、なんかとたんに生活臭が立ち上る。コーヒーじゃだめだったのだろうかと思って読み返すと、なんかコーヒーでも行ける気がする。コーヒーより透明感のある、暖かいが生活臭のしない「飲み物」としてひらがなのみそ汁を道具として使っているのであれば、成功していると思う。
最後みそ汁を与えるのではないのだな。味しないもんな。赤味噌でごりごりのナメコ汁でも出したら、その匂いと味で結婚の自覚なんかも出てくるんではないか、とこれは勝手な想像。
#9 Gustave
死体を糧として生きている集落の人間。親や兄弟姉妹の死体は食べるのだろうか。それによって今後の物語の展開が変わってくる気がする。
たいまつを持って夜通し歩けるくらいには体力はあるので、環境さえあれば人を殺して食わずとも女がいる集落に行けば人を食う以外の方法で生計を立てることはできるのだろう。獣のような書かれ方をしている4人兄弟は、家族以外の生きている人間と合った時どのような反応を示すか。ナイフで自我に目覚める、という描写から、おそらく殺して食うとか、そういう展開になるのだとは思うけれど、なんかあまり絶望的な展開は想像できない。
#10 手続き
存在としての猫。猫を普段どのようなものとしてとらえているか。なぜかわいがったりするのか。やっぱり人間に近い部分を取り沙汰してデフォルメした姿がかわいがられるのだろうな。一方で猫嫌いな人から虐待みたいなこともされたりするんだろうけど、それも人間に似てるからこそ起きる悲劇だろう。猫の猫性、って、人間側からしか定義されないので、人間の判断に結局は包括されてしまうのだろうと考えた。
人間に戻り損ねた場合の見た目は、実はあまり重要ではない気がする。人間のまま、猫憑きになったら、たぶん猫として扱うだろうし、猫になった本人は精神的にも猫だから、その振る舞いや所作も猫然としたものだと思う。と考えると、事務的に手続きが進んでいく書き進め方に緊張感は覚えるが、あまり異常や恐怖は感じられなかった。
#11 新しい
そこそこ若い年齢で父を亡くすことがどこまで人の同情を買うのか。主人公とその姉との年齢差が不明だが、二十代後半〜三十代前半で父を亡くしたということか。「ちゃんと死ねなかった父親と死を受け入れられないでいる息子」という文章、それと最後の文章。わざわざ地の文でそういった心情を吐露する主人公の自意識。家族ができないのは父親のせいでも何でもなく、ただ主人公が幼稚なだけだからだろう。わざわざ女性と二人になった時に父親の死を持ち出すまでの省略された会話の流れに興味がある。