文章は分かりやすいほうがいい。そして少し歪な世界観。現在だけではなく、「未来」を感じさせる書き方。うまく説明できないけれど、その「未来」の部分が読者の経験や心理と作用して、書いてあること以上の想像を生む。今期は、いいな、と思う作品が多数あり、ワクワクしている。久々である。
「シゾフレン」□
タイトルには独特の意味合いがありそうであるが、調べても正確な意味(シゾフレ男とか統合失調とかに類似しているが)は把握できなかった。
内容に関しては、難しい漢字と苦手な英語であまり理解できなかった。歌詞を模しているイメージはあるが、よくわからない。だから、評価できなかった。楽しめた方の感想を待ちたい。
「豊罪」
ひとり一万円で買われていくインドの人身売買。未成年。幼児。性奴隷として働かされ、エイズになって死んでいく。生かされる地獄ならば、いっそ殺された方がマシなのか。そんなことを考えながら読んだ。
豊かを謳歌することは果たしてできるのであろうか。豊かを手に入れた時点で豊かは消滅してしまう。それは、今ある豊かに慣れてしまい、先にあるその次の豊かを欲してしまうからである。主人公は凄惨な映像により、たまたま豊かを感じることができた。映像が主人公に豊かを感じさせたのなら、映像の中の外国人は誰を見て豊かを感じるのであろう。消滅する豊かを求めるために、自分よりも豊かでない人間を欲する人間。だとすると、主人公は至極真っ当な精神にあるように思える。
「「ユイゴン」」
短いのにすごく難解な文章である。ピストル自殺で死んでしまった君を迎えにきた誰か。傍らでは遺言《書》(言ってから死んだというより、書き残した方がしっくりくるだろう)片手に泣いている彼女。そこには愛の言葉が書いてある。ということが書かれてあると思うのであるが、何かしっくりこない後味が残る。
どんな物に固執(執着が正しいと思う)しているのか。愛の言葉とは何だったのか。遺言ではなく、この場合、遺書ではないのか。この短さで「馬鹿」が二回出てくることにも。
「ある日の出来事」
自己意識の小説。主人公が自問して自答してしまうから、そのときに発生した感情の幅が狭くなってしまった印象。読者にもう少し余韻を与える書き方にすれば、深みのある小説になったのではないのであろうか。
生活の中の何気ないことの一部として片付けられてしまう、そんな些細なことの積み重ねが感情を生む。最後に浮かんだ言葉がこの小説を平凡なものにしてしまったと思う。
「つま先」
自己意識の小説。石を蹴る描写の先に主人公が何を感じていたのであろう。寂しいということだけは書かれてあるが、それだけでは読者はその先をうまく汲み取れないのではないか。それが、先に書いた未来に繋がっていないと感じるところである。
意図的なのか、石が勝手に転がっているような書き方に加え、角がとれてしまうほどの時間経過。これが、永遠に繰り返される小石を蹴る行動の、終わりのなさを強調している。意図的であれば、評価したい。
「嫌い」
幼児期の出来事を明確に表現している小説をたまに見かけるが、幼児だったころの記憶というものは曖昧に(あまりにも昔過ぎるのと、大人のように理論立てて解釈できないことから)なるのではないか。大人になった自分が過去の自分である幼児期の自分を振り返って、あのときは、あぁ思っていたに違いないと判断して、歯切れの良い書き方になってしまうと、何か感情に違和感が出る。
内容としては、起承転結がしっかりしている泣かせるための小説であり、素直な小説に仕上げたという印象。
「藍」●
「都会の少年め」「都会の乳幼児だよ」この会話が二人の関係性を如実に表していて好きだ。色を使った構成にも魅かれる。こういった淡い気持ちを感じることが年齢のせいなのか少なくなったかも知れないと少し思う。ヘタをすると青臭くなりがちなテーマであるが、この作品は恋愛と友達の間をよく捉えていて素敵だ。
この小説にもし色がなかったなら、たぶん、この評価はなかったであろう。
「あなたになりたい」
はめをはずして暴れたくなったのか。文節のない書き方。999文字という策略。作者の分かりずらい面がまた出てきてしまったと感じはするが、でも、書きたくなる気持ちも分からないではない。創作のバリエーションとしては可である。
「ディナ」□
調べてみると、イスラエルの12部族のことを書いているようであり、示唆していることや、比喩する部分がありそうではあるが、その知識がわたしにはないので、これ以上の感想を書けない。ただ、歴史的な神話をなぞらえただけの文章であれば、それ以上はないと思う。
西洋美術史の文脈を理解しなければ、現代アートを理解することはできない。現代アートでは、そんなことを言われ、その作品の立ち位置である(西洋美術史の)文脈を重要視する傾向がある。この文章は、宗教的な歴史(西洋美術史の文脈に値するもの)を書いていると思うので、その宗教(キリスト教だと思うが)に携わったものであれば、きっと、感じる部分はあるのであろう。ただ、日本人の大半がそうであるように、クリスマスと初詣が共生する社会に生きるわたしには、これ以上の感想は書けない。
「まぶたが想い」
自己意識の小説。つまらないのは仕事ではなく、主人公の感じているもっと別の何かではないのか。主人公がそのことに気が付いていないから、読者も読んでいて入り込めない(もしくは空虚というか、作品として満ち足りていないものを感じる)と思えてしまうのである。
「眠くなるほど退屈な仕事を私はどうして続けているのか」
現実社会では、仕事を辞めたいと思うことがあり、目的意識がなく続けている理由があるとすれば、楽に金がもらえることに尽きるのではないのか。それはそれで正統な理由であるから、そのことを感じられない主人公は虚無なのではないのであろうか。
「新世界」
夢で見た内容。そのときの興奮と勢いを残したままの文章を心がけた。設定を前提にしていないから、自分で書いたのに、読んでいて新鮮で、あらためて解釈する部分も多々あった。
「コロンビアの浅煎り」
現在を感じさせる小説。主人公の得意分野だとは思うが、コーヒーの世界観は何故、こういったもの(音楽やコーヒーが特別であるといった自意識)でしかないのであろうか。確かに紅茶や日本茶にも、そのものが持つ歴史や認識があり、ウイスキーとワインと日本酒の違いも、その歴史や認識の違いであると思う。けれど、それをそれとして書いても。
「バス」●
未来を感じさせる小説。好きです。失ったものを探すという行為は、本来、人間が抱えている本質であるように思いました。
現実では、記憶喪失から自分という証明を失ってしまった人がいて、彼らがその後、記憶を取り戻すかは分かりませんが、もしかすると、取り戻さない方が幸せ(巨大な心的ストレスから脳が記憶をシャットダウンしてしまい喪失が起こる。そのストレスの非が自分にあったり、誰かの死が要因であるなら知らないままの方がいいのではないのか)なこともあるとも考えられます。でも、知らないことを知りたいと思ってしまうのが人間であり、その先が不幸でも、やはり、わたしは知りたいと思うのであります。
「ヤツとの戦い」●
自己意識の小説。好きです。カズキや姐さんの登場する世界観にヤツという己の内面。家というワードが心地良く消されていて、まぁ、誤字はあるが、そんなことより、いい世界観を作っているということが勝った。
よくよく読んでみると、飲んで何を出すのかとか、姐さんと何の作業をしていたのかとか、ヤツとは本当に自分の不安なのかとか、その時とはどんな時なのかとか、思う所はある。
「黒山羊の弟」
現在を感じさせる小説。姉ちゃんが本当はその世界での一番の権力者であり、主人公はその弟であること。その他に書かれている関係性もあるが、現状描写が主で考えさせるものがないと思う。作者の今までの作品では、未来を感じさせる場面が少なからずあったが、今作ではそれを感じることはできなかった。ただ、エネルギーを消耗するほどではなかった。
「加速科学と愛」●
未来を感じさせる小説。好きです。人工知能を書くことは人間を書くことと同等で、人工知能を通して哲学的なことを語らせるための手段である。この作品では子犬の死を取り上げているが、人間は何に対して感情を抱くのかといったことを説明するのはとても難しい。
AIBOはただの犬型ロボットであるが、AIBOの喪失は生物の死と同等の要素を持っている。だったら人間は喋る冷蔵庫に(AIBOと同等の人工知能があったとして)感情移入するのであろうか。
1.人間が人工知能に対して感情を抱くのか。
1.人工知能が人間に対して感情を抱くのか。
1.人工知能が人工知能に対して感情を抱くのか。
感情とは人間だけのものか。人工知能が人間の感情を理解するということは、人工知能同士が人間を通して理解し合えるということを予見する。ただ、この理解を感情と呼んでいいものだろうか。
小説の世界での人工知能は既に、人間の感情を理解しなくなっている。実世界の予測は2045年であるが、現在、大多数の人間が相対性理論を説明できないのと同様、シンギュラリティが起こったとしても、その特異点を理解、あるいは認知できるのであろうか。