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 否定的な感想が多くなり、書いてて嫌(自分は誉めてのばすタイプではないな)だなと思いつつ、それでも書きます。投稿者に投票の義務はありませんが、投稿数に対して投票数が少ないのをいつも気にしています。
 小説というのは明るい方がいい。それは、小説自体に悲しみを内包しているからで、普通に書いても悲しくなるのだから、あえて、明るく書く必要があるからである。(※保坂和志の本にそんなことが書いてあったと記憶している)では、明るさとは何であろうか。「楽しさ」とは違う。「夢」や「希望」ではなく「その先」とか「展望」といったものか。これだという答えが見えているわけではないが、私はそんなことを考え、書いたり、読んだりしている。

「見える子」
 怪談は事実がそうだったとする(伝聞をそのまま伝える)オチのないものと、オチを含めて作り込まれる(伝聞に構成を追加して創作する)ものがある。
「私」という女が実は幽霊だったという意識が反転するオチは面白いと思った。ただ、「エレベーター」「女」「幽霊」の示す典型のような怪談には、多少の怖さはあったものの、新鮮味は感じられなかった。オチを含めて、尚かつ、新鮮味も加えることは実はかなり難しく、大多数が「あぁ、そのパターンね」となってしまうほどに怪談には数多く派生した話がある。もうひとひねり欲しい。けれど、そのひねり方はすごく難しい。これをどう克服するか。怪談を書くのであれば、その打開は必要であろう。前部の改行と「。」は意味があるのだろうか。

「カルーアミルク」
 うがった見方をすれば、定型文の空欄に「人物」と「場所」を書き入れると出来上がってしまう作品と言えなくもない。前回の「カシスオレンジ」と何が違うのであろうか。
 小説は文字の集合体であり、改行や段落の使い方(だからといって私がそれに長けているわけではない)で主人公の心理状態などを表現すことができる。この小説の「見たこと」を箇条書きにしたような書き方にはその効果があまり感じられず、どこかビジネス文書を読んでいるかのような感覚を持ってしまった。別にそういった書き方を否定しているのではなく、箇条書きに合った内容の小説というものはあるし、ソングライターのように印象のある短い言葉を巧みに使う詩的な表現方法もある。「好き・嫌い」とか「出会い・別れ」の心理や微妙な空気感を表すのであれば別の書き方もあったのでは。だから、前作と同じような形態になるのは不自然であると考える。「付き合った・別れた」の表面をなぞっただけのストーリーでは私の心は動かされなかった。

「或る町の夕暮れ」
「黄金色」+「稲穂」という組み合わせ(他にもあったが忘れてしまった)は、俳句初心者が使うワード。そんなことをテレビに出ている俳句の先生は言っていた。私は「何もない日常」+「夕日」にもその感じを持っている。「夕日」は一日が無事終わる安堵のようなものを象徴し、それが、ありきたり感を出す。例えば「夜」のありきたりであれば静寂に加え、ざわざわしたものも含んでいたりする。「夕日」には「夕日」のありきたり感が含まれてしまう。これを打開するためにも、プラス「何か」といったものが欲しくなってしまった。何十年か前の青春ドラマのように、条件反射で、とにかく、夕日に向かって叫ぶ、だけでは、今の時代に合わないであろう。
 あと、ふたりの会話には台詞を棒読みしているような陳腐さを持った。結局、夕日に流され、その場の雰囲気を書いてしまったけれど、たぶん、この会話では二人の関係はうまく表現できていないように思う。何もない夕日の世界は虚構なので、二人の会話も虚構であるとした見方もできなくはないが、セリフの選定が少し説明的過ぎるのが問題なのかも知れない。多くを語らず、読者にそれとなく理解させる言葉というものは、きっと、あるはずである。

「スイート・マリー」
「犬」はなぜ「犬」なのであろう。「犬」としたことに意味が含まれているとしたなら「犬」にもっと存在感を持たせても良かったのではないだろうか。インパクトある単語を用いる作者が「犬」を使ったということは「犬」には重大な意味が隠されているのであろうか。「犬」がペットであれば尚更、「犬」を名前で呼んでおかしくはない。いや、むしろ、名前で呼ぶべきである。状況からすると「犬」はマリーの飼い犬であることが伺えるが、「犬」を「犬」とした言葉の突き放し方には意味が含まれているようには思えない。この小説の記号はカタカナで、その中で異彩を放つ漢字の「犬」が最後に「二人をみあげて鳴いている」としているのは、やはり、「犬」には意味がふくまれているからなのであろうか。「犬」で締めくくるほど「犬」には意味があるのか。もっとも、私の知らないコンテクストを用いる作者なので、単に私が知らないだけなのかも知れない。

「ヒト、ですから……」●
 作者らしい仕上がり、前作のように投げっぱなしでないところがいい。ただ、最後の一文の意味は汲み取れなかった。他人が主人公名義の家を建てることは贈与に当たるのではないか。購入はローンなのか。売れる前提ということは売却額をローン返済に充てる必要のない一括購入なのか。土地は誰の名義(親名義なのか、土地も含めて主人公のものなら主人公が知らないというのはおかしな話しではあるが)なのか。家を売るにしても売らないにしても、借金地獄に落ちるような感じもする。現実感のある小説なので「わからない」は好ましくない。例え、主人公はわからなく(そういう設定)ても、作者は知っているべきである。
 作者はテーマを「家」としたことで、「家」に引っ張られ、「家」に支配されてしまっている。「家」を主張し過ぎて、その先にある心裏を逃しているように感じる。「家」は刺身のツマでも良いと思う。「家」を書かないことで「家」を感じさせることができれば、それは、作者の勝ちであるとも思う。主人公と姉の会話は面白いので、その内容、設定、背景をもっと詳細にすれば、読んでいる側の充実感が増すのではないか。
《前作に対しての感想》
「家」から離れて、もう一歩踏み込んで続きのような展開を提示してもらえれば、私はいい評価を付けると思う。1000文字で収まりきらないのであれば、その先も書いて欲しいのである。

「すいかのにょうさんち」
 それらしい言葉の選択はいいと思う。ただ、それを読者に理解できる形で提示できていない。わかりやすく書けばいいというものでもないが、作者はやはり、自身の脳内処理で読者に理解させた気になっているように思う。主人公の精神を反映させる方法としての書き方であれば、これはこれで良し、とも考えられるが、どうも、言葉のぐちゃぐちゃに陶酔しているように思われた。
 前作にもあった「ビール」には違和感が残る。私はどうしても「ビール」に現実感を持てなかった。前作では、作者は「ビール」を飲まない人なのであろうか、そのように考えていた。それだったら、「ビール」をアイテムとして活用しきれていないことにも納得がいく。今作、「ビール」を「ハイネケン」とすることで言葉の響きは良くなった。「バドワイザー」ではこうはならないのだから、言葉の選択は間違ってはいない。でも、現実感はない。でも、それが狙いなら、それでいい。

「江口君のこと」●
 忘れようとすること自体がそのことを考えさせられていることになり、江口君を否定しようが、肯定しようが、考えさせられていることに変わりはない。なぜそのことを考えてしまったのか、この些細な心の動きを作者は上手く書いていると思う。
「虫のこと」は好きである。そのとき感じた心の微妙な動きを今作では読者に分かりやすい形で進化させた。クラスにいた、ちょっと癖のある子が、ああ、やっぱりね、と思わせるどこか腑に落ちた感じ、江口が捕まったことは直接、樫村に害は及ぼさないが、納得がいってしまった樫村の、それでも、考えさせられた時間の消失は消えることはない。そのような心の動き、考えさせられてしまったことへの感情を表さないことで樫村は自身の消失に決着をつけようとするが、それは、きっと、消えることはなく、何かの折りに「ぐっとこねー」と共に万引きした樫村のことを思い起こすのであろう。そして、消失は、たぶん、ほぼ、永遠に繰り返される。
 癖のある子(変わった子)を現在は「発達障害」と分類することもある。何人かに一人はいるそうで、そうなると、その境のグレーゾーンの子だって、それ以上いることになる。「江口君のこと」と「虫のこと」では、そのあたりに作者の意識がいっているように私には感じられた。

「彼方の入道雲はもういない」
 何万体もある仏像(のようなもの)を含んだ小説を書きたくて、どうもしっくりこなかったので保留にした。それから、途中まで書いていた今作の続きを書き出す。元々は「アナクロバイサイ」を含んだタイトルだったが、内容一新、一気に書き上げ、タイトルもその勢いを借りてつけた。辻褄は合わせたが、以下に書いた、曲に詩を付けた感じである。

「超能力カップル」●
 最後に一番言いたいことがあって、それを語らせるために1000文字の助走がある。作者の特徴的な書き方になりつつある。好きなものは最後まで取っておくタイプの小説。これを書くためには、素材を選定して、組み替え、印象づける言葉、などを巧みに考える必要がある。もちろん、このタイプ以外の小説でも同じことをしてはいるのであるが、その差を量るにはどうすればいいのか、それを考えていて、ふと、詩に曲をつけるのか、曲があって詩をつけるのか、を思い起こした。私は曲に言葉をのせた方(こちらの方が感覚的に作業がしやすいと思う)がしっくりくるのであるが、この小説は、たぶん、詩に曲をつける感じ(ジグソーパズルのように整然と作業する行為)に近いように思う。そんなこと勝手に考えて、作者の創作に私はいつも脱帽している。ただ、その作意的行為が私の心に響き過ぎることもある。前作はそれであった。それが、私の中の評価を下げることになるのであるが、今作の評価は中間といったところか。本音を言えば、たまには作者の作ったカップラーメンも食べてみたいのである。

「積み石のアーチ」
 毒に加え、不明さが際立つ。言葉の選択はいい。これは「すいかのにょうさんち」と似たような感覚で、読者に伝えようとする感覚が見えてこない、といった感覚である。それはそれでいいのであるが、そのことを意識して書けば、もっと面白くなるのにな、といつも感じているので、それが惜しいと思うのである。ただ、毒々しさの影響は依然としてあり、こちらの体調、精神次第で評価は大きく変わる。この作品は読者の体力を奪うタイプの小説である。小説を読んでエネルギーをもらう作品もあれば、この作品のようにエネルギーを消耗する作品もある。私はエネルギーをもらいたい。

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