最初に、先の投稿で曠野氏の作品の題名を間違えて書いたことを、お詫び申し上げます。
否定をすべてに対して貫くこともなかなか難しく、とりあえずそういった方向性を持った感想だけを先に挙げてみようと思います。それはつまるところ、全作品の観想を小出しにすることに過ぎないような気もします。
選出基準にぶれがあるかもしれませんが、このような感じで。
#3 枕の下にある枕
これだけでは足りない。その後枕と主人公がどうなったのか、あるいはどう思ったかが、この物語には必要だと私は思う。思うのであるが、さて同程度の字数で私が投票した『僕と猫』と比べてどう違うのかと問われると、なかなか難しい。
ところで、人間の作り出した道具に使われる想像というのは、扱いが難しいものだと私は思う。それならばあれはこれはそれは、とそう考えなければならなくなると思うからである。そう書いているうちに思いついたのだが、あの後主人公が他の何かに思いを馳せても良かったのかもしれない。
qbc氏の感想を読んでから思いついたことなのが、「突然、きつい調子の声が鼓膜を打った」の表現に、「枕元で」もしくは「耳元で」の言葉があると良いと思った。
#4 スペース・リビドー
『灰人』とは、『廃人』のことなのか、はたまた『灰燼』のことなのか。この種のペンネームは一時の思いつきでつけるべきものではないだろう。違う作風のものを描きたくなったときに足枷になりかねないと、私は思う。
さてなぜペンネームに難癖をつけたかというと、黒田皐月はこの種の作品にはほとんどの場合批評を下さないため、お茶を濁しておきたかったからである。一言だけ言うとすれば、漢字の使い方がわからなかった。
#5 贖罪
言ってしまえば毎回良くわからないのであるが、本作が最もわからないように思える。雰囲気はいつもの調子であるが、本作の後半は論理が乱れてしまっているようにしか思えなかった。なぜそう思ったかと言えば、「連中のことなんかほうっておこう」と言いながら、最後には「闘うんだ」として、それは連中に対してではないのかもしれないが、何かと向き合うことを言っているからである。
「脳内の電気信号が一方向にしか流れない、それが本当の病気なんだ」の言葉は面白いと思った。それは受信方向がないこと、即ち他者からの干渉を受け付けない、自分だけのことしか考えていないことを常套ではない言葉で表現しているものである。
#7 宝の部屋
不毛から砂漠、砂漠から砂、砂から砂時計の連想なのだろうか。それにしても砂時計の中の砂の量を変えてしまえばそれは時計としての機能を失ってしまうのだから、「砂時計の中の砂時計を満たす」の心情描写は適切なものなのだろうか。
ひとりの空間から他人との接点をもって安らかに眠るという展開は悪くはないと思う。ただしかし、その転換の手段がミサイルである必要はない。隕石の飛来でも火山の噴火でも地震の発生でも、人為的ではないもので十分だと思う。それから、「ついに僕は自分の世界から出れなくなった」の表現はいかがなものだろうか。それ以前からも、自分の世界から出ることなど、していなかったようにしか見えないのであるが。
#8 4minites silence
『短編』で連作は、少なくとも最近ではあまり見られないと、宇加谷氏の作品を連作とは異なる作品群だと考えている私は、そう思う。どこが異なるのかと問われれば、単品での評価が可能であるかという点だろう。
ところで、気がつくと主人公の周りには幾人もの脇役たちが登場している。彼らの間に関係はあるのだろうか、それが今後の展開の鍵となりそうに思える。
#10 例えば千字で刹那を
それで、現在の人類が捉えている最小の時間がどの程度であるのか、そしてそれはいかなる計測方法を用いたものであるのか、実は調べていない。例えは、決して良くなかったであろう。
テーマとしては永遠の方が簡単だったように思う。それに、「刹那」という言葉は、あるいはその漢字は、観念的なものであるように見えるのである。
#11 男たちのヤマト
何なのだろうかと思われたこの作品の中で異彩を放っているのは、題名にもあることでもあり異彩を持たせることを意図しているのではあろうが、最後の一文である。さてこれが何であるのか、あまり変な方向に期待してはいけないだろう。
ところで、電話番号は九桁ですか。
#12 ジョー淀川vs峰よしお
最初の第二文と第三文がハンニャ節だと思った。だが、その後がついてきていない。ジョー淀川の最初の一声が、やさぐれ編集者とは思えない台詞になっている。だがそれもまた、狙ってそうしているものなのかもしれない。しかしそうであるならば、突き飛ばされた後の豹変の瞬間をもう少し丁寧に描くべきではなかっただろうかと思う。
#17 松の木のおじさん
おじさんが折ってしまった松の木に戻ってきたことと名付け親が「弟子にしてください!」と言ったことの動機がわからない。そのことがこの物語で最も重要なことであるはずなのだが、それがわからなかったので感想が言えず、残念に思う。
#20 Dreamer
緩和とは何だろう、緩慢ではいけないのだろうか。
情景描写、その行動の動機は何ひとつわからない。わからせる必要のある種の物語ではないと言えばそれまでだが、何ひとつ意味がわからない。
死んだ男に対して「男の断りなしに勝手に見当をつけた」という物言いは、面白かったと思う。どんな人物に対してでも使えるものではないが、参考にして良いと私は思う。
#23 くろぐろとうろこを
るるるぶ☆どっくちゃん氏の作品で何が本当で何が嘘かを考察することは、無駄かもしれない。せめて、美しいのか醜いのか、希望なのか絶望なのか、それくらいは知りたいのだが、ほとんどの場合それもままならない。
#24 線的虚構の解体(おためし版)
私は第45期以前の作品のほとんどすべてを読んでいないが、実は例外的に件の『第10期感想一番乗り』は読んでいた。あの作品は、あの時期のあの雰囲気(私は当時は『短編』に参加していなかったので、より正確に言うならば当時の掲示板の内容から私が推測した雰囲気)の中でしかありえない作品であり、普遍的に良い存在ではないと、今の私は思うのである。だから、普遍的に良い、メタ化によるネタは、自分で作りあげるしかない。それを成し得るか否かは、これからの纏め上げが勝負である。
作品中に他の方の名前を使用することに、許可はもらっているのかしら。それこそあの時期のあの雰囲気でしかありえないと思うのだが。
―――破壊は、創造よりもはるかに容易である。
題名をつけるのが苦手とたびたび言っておりますが、それで後悔するのは実は投稿作品ではなく、掲示板であったりします。この度もまた然り。
さて本題の感想の前に、以前にも感じたことがありそのときには言わずに抑えたことなのですが、今回は言ってしまいます。
私の知っている時期の『短編』の掲示板は、批判に対して態度が厳しい、あるいは冷たいと言っても否定的と言ってしまっても良いのかもしれません、そのように思うのです。
タンソ氏の意見は、テーマを感じさせる作品が良い作品であり、それを目指すべきであるということだと私は受け止めました。私が過去に使った言葉で、何かを感じさせる作品が良い作品、という言葉がそれに近いものだと、自分では思っております。ただし、私の場合は読み解くことはしないので、感じることは必ずしもテーマのようなはっきりしたものではないのですが、それは読み方の問題ですので、やはりテーマを感じさせるべきの意見は是であると思います。
このような意見が出されたときによく挙がることが、ではどうすれば良いのか教えてほしい、ということかと思います。それは、プロは問うてはいけないことなのでしょうが、アマチュアの身としては情報交換などもしたいと思うのです。しかし、それらの意見は押しつけになってはいけないと思います。交流を持つことによって情報を得て、あるいは発信もできれば良いかと思います。異分野ではありますが『文学極道』を挙げたのは、せめて多少なりとその役に立てればと思ったからです。
否定することは簡単です。しかし、それだけに留まるべきではないでしょう。
自分は『文学極道』に手を出さないで良かったと安堵している、黒田皐月なのです。
結局のところ進化もせず、深化もしなかった感想を、提出します。
怨の念を称していたところに含まれていなかったからといって、実は必ずしも好きになった作品ばかりとは限りませんと、余計なことを付け足しておきます。
#1 葬列
私が未だできていない多くのことのひとつに、天気の描写がある。本作ではそれを直接に描写せずに登場人物の台詞を用いて表しており、それは上手い書き方だと思う。雨でも良かったのかもしれないが、降りそうでまだ降っていないという天気を選んだことも、情景の構成に上手く作用していると思う。
前半はただの会話のようでもあるが、そこにもすでに異様なものが散りばめられていて、恐ろしげなものになっており、特に「写真の中では少年が死んでいた」の表現は怖いと思ったのであるが、さてどうしてわざわざ運んできた棺が置き去りになってしまったのかは、わからなかった。
#2 ねがいごと
私がこの作品で上手いと思ったことは、油揚げの量に変化をつけていることである。即ち、ヨウコのときの「結構大量」から、ヨウイチのときには「大量」に増やしていること、これが祖母の気持ちを表現している。
子供の頃の記憶が蘇った後の最初の行動があった方が良かったかもしれない。しかしそれは非常に難しく、並大抵のことではせっかくの良さを壊してしまう。それならば、本作のようにあえて描かないことが、正解なのかもしれない。
#6 爪
爪を失う場面の描写は詳細に描かれているものではないが、恐ろしいと思った。それはあるいは、物語が生々しく描かれているということなのだろうか。
そこまで周囲に合わせて生きなければならないのかと、そういったことにはおよそ無頓着な黒田皐月は思った。しかし本作は、そんなステレオタイプの悲哀を描いたものである。
#9 とある日常
さて鷹山がなぜ天野の携帯電話に電話をしなかったのかは、結局わからない。そのあたりが、脳内を一度見てみたいと思わせるところなのだろう。だが、同時にその時刻が記憶に残っている天野もまた、脳内を見てみても良いのかもしれない。
「キレ者だが、頭の線が一本切れている」は上手いと思った。
#13 チュベローズ
ヘトヘトになりながら書類の整理をするのは、もっとスマートなイメージのある古田さんらしくはないかなと思った。そうではあるが、この作品群は時系列に並んでいるものではない。すべて整理して並べ替えをしたことはないが、本作はかなり初期に属するはずである。そうすると、まだスマートに仕事ができていない頃と言うこともできるのかもしれない。
#14 晴雨
なぜ途中から改行のさせ方を変えているのかはわからない。
最後を除けばこれは単なる手記に過ぎないのだが、これに狐の嫁入りの逸話を織り込んで物語とさせている。そうすると今度は手記であって、事実以外が入り込まないものであることが重要となる。私にはこれが戯曲の一場面のように見えたが、そういう構成で良いのかという疑問もあるかもしれない。
#15 わくわく
悪く言えば前期の『見えない出口』のポジティブ版の二番煎じ。
私は、最後の行を読むまで出稼ぎの話だと思っていた。「かつての友はライバルとなり…」では、どんな仕事だろうかと首を捻ったりもした。だから、最後まで結論を予測させないことには、成功していると思う。
さて、それを知った上でもう一度読むと、「男は帰ってきてもまだ仕事がある。」の一言は男尊女卑に聞こえるのだが、どうだろうか。
#16 僕と猫
人語を解した猫は、私たちが現実に知っている猫であり続けられるだろうか。それを探せばいろいろな作品が挙げられるだろう。しかし、『吾輩は猫である』のような猫が人語を発したら、可愛くないだろう。
本作の猫は、現実の猫から大きくは外れていないと思う。それが良いことか否かはわからないが、柔らかい物語になっていることは、良いことであると私は思った。
#18 きれいな円が描きたい
円は平面状の図形であり、立体的に存在するものではない。
この物語の良さは大きく三つあると、私は思う。ひとつは、『よいとこさ、よいとこさ』に対して同じことを言ったが、本当に創作なのかと思わせるくらいに劇中の行動に上手く当てはまっているその行動の由来、劇中では風習としているものである。ひとつは、第二段落のような、行動を読者に鮮明に想像させるに足る描写の上手さである。そしてもうひとつが、「円の姿に好悪はない」という含蓄の深い言葉である。さて、この言葉に込められていることは「円を描くということの難しさ」だけなのだろうか。「堅苦しいことではないから」と言ったことにつながるが、これによって処罰を受けることは今はないからきれいな円が描けなくても良いということもあると思うし、また、海坂氏の感想につながることだが、描かれた円よりも描いた者の精神が肝要であることを言っているようにも思える。
ところで、上から時計回りと反時計回りの半周ずつで描いたらどうなるだろうか。
#19 メフィストフェレス
古参の庶務の女性とキレ者の新入社員の男の子、この二人の関係をさて他の言葉で表そうとすると、これが難しい。即ち、この例えは巧い。恐らく美人でもなく、結婚適齢期も過ぎてしまった女性でも呼べばすぐに来るのだから、もはや女たらしの域を超えており、悪魔としか言いようがないだろう。
その悪魔の世間の飛翔術を盗んだものが、課長のお猪口を取ってしまったことなのだろう。意味のない羅列にも見えるが、決してそうではない構成をしている。
#21 美空ひばり評
わたなべ氏の作品に対して「嘘みたいに幸せな家族」という評がある。それは本作にも当てはまる。それは必ずしも悪いことではないが、読者によって好悪がわかれることも生じる。黒田皐月はこの種の作品は好きであり、私の評はすべてそのことが基盤にある。
温かいと言わずにそう思わせることが、最も上手いことなのかもしれない。しかし私は、描写を積み上げて頂点にその言葉を持ってくる手法が好きである。本作は、すべての描写がそのために用いられているように私には思えて、その積み上げられた温かさが、私は好きである。
#22 部活動生22
これが22番目に位置していることは、偶然のはず。
本作について考えさせられることは、現実では主人公は何歳なのかということである。それによって夢の内容が、まだ来ない未来に怯えているのか、過ぎ去った過去に後悔しているのかということで、まるで違うことになってしまう。ただ、それは必ずしも必要ではないことかもしれず、それが面白みなのかもしれない。その夢に母親が登場したのは、なぜだったのだろうか。現実にも登場させておかないと、マザコンのように見える。
さて、食パン一斤など、どうやって食べるのだろうか。
海坂氏の所感には実はあまり読んでいないからと逃げることにして、先のタンソ氏の「美しい」や「綺麗」といった言葉遣いや相対性理論への向き合い方の意見を一般論だと思って読んでしまっていた、黒田皐月でした。そんな言葉を使うのは実は私ばかりだったことに、後になって気がつきました。