久しぶりに来てみたらなんか面白そうな議論をしていたのでちょっとだけ反論を書かせてください。ながつきゆうこさんのツリーに付けたのはその意見を土台にした方が端的に述べられそうだったからで、特に深い意図はないことをあらかじめお断りしておきます。また、この書き込みにより気分を害された方がいたとしてもゴメンナサイとしか言いようがないことも併せて断らせていただきます。
まず、タンソさんのような方は昔からいらっしゃいました。その多くが“読み手”の視点で書かれているのに対して、ご存じの通り「短編」は“書き手”の方の強いサイトですので意見が合わず(大体が「だったらオマエが書け」や「アンタの読解力が足りないんじゃないの(笑)」等の悪意ある意見によるモノですが、その後誰からもフォローがないなど短編参加者の総意なの?と受け取れるようなコトもありました)、いずれも短期間で訪れなくなっています。
次に、小説に限らず書き物というのは書き手と読み手がいてはじめて成り立つモノだと私自身は思っています。今回、タンソさんは投票時の感想で「一読者として」と自身を“読み手”の立場として書かれていますが、今回みなさんからの意見を読むとやはり“書き手”として書かれているのが殆どです。曰く、そんな作品は書きたくない。もっと広い視点を持った方が良いんじゃないか(意訳)、等々
元来、“読み手”というのはワガママで良いと思うんです。読解力のレベルもさまざまで良いと思うんです。その要望に合わせるべきは“書き手”であって、“読み手”に求めるのは間違いじゃないかと思うんです。“読み手”を意識していない作品は単なる自慰行為、チラシの裏だと思うんですがどうでしょう?
などと、荒らしに近い書き込みをしてみるテスト。
何かもう減速しきれずにまた書いてしまうような感じがします。記事番号64『恕に往かず…』と重複することを言うかもしれません。
〉タンソさんのような方は昔からいらっしゃいました。その多くが“読み手”の視点で書かれているのに対して、ご存じの通り「短編」は“書き手”の方の強いサイトですので意見が合わず、いずれも短期間で訪れなくなっています。
ひとつ前に現れた方を挙げるとすればP氏かな(P氏は作品投稿もしていましたが、物言いとして)と、当時はいなかったので間違っているかもしれませんが、そう思いました。
さてこれは、つまるところ『短編』の風土であり、簡単には改まらないかもしれません。ところで、なぜP氏を挙げたかというと、氏の主張の中に「投票率が国政選挙のそれにも満たないような冷たい読者」と言い換えられるようなものがあり、私はこれに感じるところがあったからです。
私は、もっと多くの人に投票してもらいたい。もっと多くの人に発言してもらいたい。しかし私自身は、それを実現する方法を知らない。
敷居が高いと思われているのでしょうか。そう思われている方がいるとすれば、是非ともまずはそう言っていただきたい。しかし本当はそのようなことはないと、敷居の内に居るつもりの私は思います。なぜなら、この私が、得票率ゼロ率の高い私が、ここに居続けられているのだから。他のご意見にも、『短編』の風土を評して風通しの良さを挙げた方もいたから。
今必要なのは、投票を含めた発言の絶対数だと私は思います。確かに質の悪い発言が大多数であるサイトが人気を博することはありませんが、今の『短編』にはまず、量が必要であるかと思います。ただしそのために投稿者に投票を強制することは、『短編』の特徴を損ねてしまうことになりますので、実施すべきではないでしょう。
私にできることは、よろしくお願いしますと言うことと、失敗を重ねてでも自身が発言を行うことだけです。だから、それが書き手側の発言率を上げてしまうことにもなりますが、それをします。
投票してくださいました多分あの方にありがとうございましたと余計なことまで付け加える、黒田皐月でした。
チキン様が私の伝えたかったことを分かりやすくまとめてくださったので、私にももう一言言わさせてください。
黒田皐月様は多くの評価が必要なのだと仰られました。そしてチキン様は、私のような気持ちを抱く人は昔からいて、いずれも短期間で去っていったという事実を述べてくださいました。二方の考えを総じてみると、評価の数を減らしているのは、黒田様の言う『短編』というサイトの風土ではないかという結論に至ると思います。「“読み手”を意識していない作品は単なる自慰行為」であり、そういう作品が少なくないということ。そしてそういう意見を持つ「読み手側の書き手」を次々と殺していったという歴史がある。
そういうサイトには、ある限られた人間しか投稿しないし、批評もしません。選民思想に支配された「ムラ」なのです。ゆえに、黒田様の願望は実現しない。都会の人を迎え入れるためには、ムラは古いしきたりやしがらみを捨て去らなければいけない。
ですが、ムラにはムラの美点があります。私が今までの執筆方針を大きく揺るがすほどの影響をこのサイトで受けたことも、また事実なのです。
さしづめ私は、一時的に訪れた観光客と言った心持です。住むことはできない。
今後どうするかは、ムラ人がきめることです。私に分かることは、このムラはその風土ゆえ、極度に人口が少ないということだけなのです。
〉 そういうサイトには、ある限られた人間しか投稿しないし、批評もしません。選民思想に支配された「ムラ」なのです。ゆえに、黒田様の願望は実現しない。都会の人を迎え入れるためには、ムラは古いしきたりやしがらみを捨て去らなければいけない。
なんだか、最後に捨て台詞のようなものを残されて悲しく思いました。ただ単に自分の意見が受け入れられなかったから、「ムラ」というレッテルを貼ってるだけのように見えました。
だって、短編には、毎回誰かが新しく参加してるじゃないですか。作者別目次のページ見たことありますか? これのどこが「限られた人間」なのでしょうか。
それから、
>「“読み手”を意識していない作品は単なる自慰行為」であり、そういう作品が少なくないということ。そしてそういう意見を持つ「読み手側の書き手」を次々と殺していったという歴史がある。
とありますが、純粋な読み手視点で言っても、書き手が読み手を意識しているかどうかは、少なくとも僕にとっては全く問題でありません。たとえ作者のオナニーでも面白ければ何だってかまいません。それに、エゴのない優等生の書き手が書いた小説ばかりだったら、それこそつまらないと思ってしまいます。読み手がワガママでいいのと同じように、書き手もまたワガママで良いです。そして、書き手に面白さを強要する以上、読み手もまた作者が仕掛けた面白さに敏感であるべきだと思います。
もちろん、これは僕が自分に課していることであって、読み手全員にそうしろと言っているわけではありません。ただ、読み手にもそういう考えの人間がいるということを知ってもらいたかったのです。
はじめまして。決して「荒らし」ではないと私は思いますよ。こんな風に「短編」を見ている人もいらっしゃるんだなあと感じました。自分が批判の対象として想定されている「書き手」だったとするといささか困るんですが、話を聞いてもらえると幸いです。
〉まず、タンソさんのような方は昔からいらっしゃいました。(中略)
〉いずれも短期間で訪れなくなっています。
そうかなあ、というのが私の正直な感覚なんですね。具体的に誰?と問いつめるつもりはありませんが、そんな人いたかなあ、というところです。
元来私という人間は物覚えがよくないのですが、考えてみると、去って行った人、というのはいつも、掲示板で華々しい議論の末、だったと思うんですよ。そしてそういう人たちは決まって書き手であり読み手でもあった。
純粋な読み手の方というのは姿を現さないことが多いので、「短編」の作品傾向に呆れ返って読むのを止めた、という人は居たのかどうか、観測する術がないわけです。ある意味チキンさんが初めてじゃないか。だから非常に貴重な存在だとおもうのですが。
で、
〉ご存じの通り「短編」は“書き手”の方の強いサイトですので
というのも、そうなのか? って感じです。(おっしゃりたいことはなんとなくわかりますが)たとえば私なんかもうずいぶん書けなくなって読み専になっていますけれども、別に差別されてるとも思わないわけで。
ただ言えることは、掲示板で感想を書いたり意見を述べたりする人は、やはり多かれ少なかれ「書くこと」に対して高い意識を持っていると思われます。この辺は個人的な見解になりますが、創作をするからには当然、普通の人とはちがった感覚を持っているわけです。
だから「短編」で書き手の方が目立つとすればそれはある意味必然かなと思うし、別に悪いことではないと思うんですけどね。
〉小説に限らず書き物というのは書き手と読み手がいてはじめて成り立つモノ
確かにそういう一面はあると私も思います。でもあえて言えばですね、書き手というのは創造主、クリエーターなわけです。極端な話をすれば、他者としての読み手が居なくても世界は成立します。映画ではそうはいかない、と言ってた監督がいましたが、小説は紙とペンだけで出来る仕事なんですから。
実は自分が書かなく/書けなくなってから、「短編」の作品を読むと改めてそういうことを強く感じるようになりました。これ全部一つずつ独立した小宇宙なんだ、すごいなと。まあこういう感じ方が書き手的なのかも知れませんけども。
そして小説の場合、書き手がまず第一の読み手になります。つまり自分の納得できるようなものでないと、書く意味がない。これはどんな芸術でもそうじゃないでしょうか。
〉曰く、そんな作品は書きたくない。もっと広い視点を持った方が良いんじゃないか(意訳)、等々
意訳ということなので正確に記させてもらっていいですか。まず、書きたくない、じゃなく、書けない、なんですね私の場合。選り好みしている余裕はないのです。
それから、もっと広い視点を、ということは、タンソさんの書き込みNo67を読んで、自分にも跳ね返ってくることとして改めて感じているのです。やっぱり自分だけ愉しんで書いていてはいかんなと。気づかぬうちに甘えが入っていたかも知れないと。
おそらくそういう緊張感は純・大衆を問わず誰にも常に必要なものであって、人の作品を読んだり感想をやりとりしたり、あるいはこうして文学論を交わす中で磨かれるのだと思います。
別件ですが露骨に書いてしまいますと、よかったらタンソさんも寄稿してみませんか、ということだったりします。チキン理論が正しいとすれば「短編」では書き手の方が強いのですから、書き手にならなきゃ勿体ない。
〉だって、短編には、毎回誰かが新しく参加してるじゃないですか。作者別目次のページ見たことありますか? これのどこが「限られた人間」なのでしょうか。
作者別目次、改めて拝見しました。
確かに毎月新しい人が現れているようです。そして1作投稿して、消えている人がほとんどですね。なので、月の読者数は少ないのではないかと思います。そしてその総数すらもたったの350人以下。
まあ、この際数の話は置いときましょう。数が問題ではないのですから。
問題はレパートリーでしょう。不条理文学の投稿があるのはいいですが、
みんな不条理が好きで、選ばれるのもやっぱ不条理で、というのは・・・・・・
少なくとも私のような観光客はここでヒきます。
不条理は、よほどの手だれにしか(それこそプロか)描けない難しいものでありますし。まずは、普通のオチのある作品を書くことの練習を、お勧めしますが・・・・・・いえ、やはりこの辺はムラ人に任せます。私の思う作品が絶対ではないのですから。
ちなみに私、このサイトに別PNで投稿しています。