仮掲示板

Re:ではもう少し

全くかみ合わない議論をありがとう。

〉> 読者の方が低い位置にいるって何事でしょうか? 読者がいなけりゃ、その小説は路頭に迷ってしまうんですよ? そんなだったら、私は、「書き手」になんか成長したくない。読者の目線で作品をつくりたいです。

まず、タンソさんと海坂さんでは“小説”の定義が異なります。海坂さんは「作者(小説家)」が書いたらそれは“小説”だ。という考えです。反面、タンソさんは、「作者」が書き「読者」が読んではじめて“小説”といえる。という考えです。つまり、「読者」のいない小説は小説ではなく“チラシの裏”ってことです。この辺をハッキリさせないといつまで経っても議論は平行線のままです。

〉 三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)に、小説の読者には二種類あるんだという話が出ています。「レクトゥール」というのがいわゆる素人さん、それに対して、小説を本当に深く読める種族「リズール」というのがいると。
〉 三島にいわせると、
〉「作家たることはまたリズールたることから出発するので、リズールの段階を経なければ文学そのものを味わうことができず、また味わうことができなければ、自分も作家となることができません」
〉ということで、明らかに書き手の方が「上」なのです。

この部分でも主張する意味合いが違いますよね。タンソさんは海坂さんの記事123の主張に沿って「作者」と「読者」が対峙した場合、読者がいなければ“小説”として成り立たないのであるからそこには上も下もないだろう、平等だろう、といっているのですが、海坂さんは三島由紀夫氏の言葉を引用して「作者」になるためには「読者」として段階を経なくてはならず、従って「作者」が上なのは当然でしょうと答えています。
 もちろん、作者が「上(というより「神」か)」というのはある側面では当たっていますが、今回の海坂さんの引用では変だと思います。

また、この反論で不快になるのは、海坂さんがこの引用を行うことで、自分を含め、「短編」に投稿しているのは「作者」であるのだから当然「読者」としてはリズールであるかのように受け取れることです。
 んなわけないですよね。2006年4月16日放送の情熱大陸の中でリリー・フランキーさんが、「イラストレーターになりたいのだったら、今日から『私の職業はイラストレーターだ』と公言すればいい」といってましたが、イラストレーターが小説家でも同じことなんですから。

〉たとえば水村美苗は誰かとの対談で、「馬鹿には小説は書けない」と言い放ち、

はい。すみませんねぇ、馬鹿で。

〉 しかし大衆小説家がいくら「私は読者に奉仕するんだ」という考えであったとしても、彼らの文学的素養が読者と同レベルということは絶対ないですね。これは確実にそうです。

そうですね。でもタンソさんもそんな主張(作者と読者が同レベルである)はしてませんよね。一貫して、「作者」が「読者」の目線まで降りていって、そこで楽しめるような「小説」を書きたい。書いてはどうですか?そういう主張だったと思います。



以上、揚げ足取りの反論、というか単なる両者の解説ですが(笑)は終わりです。できればもう少し相手の意を汲んで答えていただけるとまともな議論になったのではないでしょうか?
最後に、これは私の主張であり、たぶんタンソさんも同じように考えて議論をはじめたと思いますが、「短編」をより盛り上げるためには「レクトゥール」を増やしていくべきではないかと考えています。
海坂さんはどうなのでしょう?「短編」に「レクトゥール」は不必要ですか?

お答え

 直接的な問いになっているので、最後の部分から先にいきますか。

〉最後に、これは私の主張であり、たぶんタンソさんも同じように考えて議論をはじめたと思いますが、「短編」をより盛り上げるためには「レクトゥール」を増やしていくべきではないかと考えています。
〉海坂さんはどうなのでしょう?「短編」に「レクトゥール」は不必要ですか?

 考えてみたらqbcさんが152で応答されていますね。こうやって対話している事態そのものが「盛り上がっている」と言うべきでしょう。
 さもなくばそれこそ春樹にでも寄稿してもらうしかないわけで、小説だけを読んでくれる普通読者ってのは「短編」には望み得ない、少なくとも大きく増やすというのは無理である。というのが私の現状認識です。それは市場という別の原理によってそうなっているのであって、…べきだとか、不必要だと宣言するしないにかかわらず、そうなのです。
 そこが納得いかない人は、読者が増えないのはこれすべて、不埒な作者が読者のことを考えないからだ、とひたすら精神論に走るわけですけども、私に言わせれば、それはオアシスの幻影に引かれて砂漠を彷徨するようなもんです。どこかにいるかもしれないバーチャル読者の影を追い求めるよりは、今ここに集える人々(書き手読み手問わず)との交流が大切なんじゃないか。
 というようなことを、私は「短編」の五年六十期の歴史を通じて考えるわけです。こういう言い方をするとまた、古参を鼻に掛けてとか陰口を叩かれる羽目になるので言いたかないのですが、たとえ読者は爆発的に増えなくても、「短編」はその時々で熱意のある書き手あるいは読み手の人たちが参加して、滅びることもなく続いてきてるわけです(その中でも当然北村氏の設営が特段の意味を持ちます)。レクトゥールなど極端に言えばどうでもいいので、そういうバトンを出来るだけ多くの人が引き継いで行ってくれる方が大切だと私は思っています。

〉また、この反論で不快になるのは、海坂さんがこの引用を行うことで、自分を含め、「短編」に投稿しているのは「作者」であるのだから当然「読者」としてはリズールであるかのように受け取れることです。

 ここはちょっと引用が足りませんでした。三島は続けて、
「しかし依然としてリズールたることと、作家たることのあいだには才能というまか不思議な問題があり」
と書いています。つまり彼のいう「作家」というのは当然、作品を世間に広く発表して職業としている者、のことです。つまり「短編」投稿者はぜんぶ、彼から言えば作者でも何でもないただの人です(笑)
 不快だと言われると反論のしようもないのですが、このリズールというのはそんじょそこらにいるものでもないんでしょう。三島の想定ではどうも批評家として店を張れるくらいなレベルを指しているらしい。
 しかし私の考え方では、これは「意識」の問題と言いたいのです。私なんか新聞の連載小説を読むときなどは明らかに粗い読みで、レクトゥール状態ですが、「短編」の作品を読んで投票しようとか感想を書こうとかなると明らかに意識が高くなります。それでも大したこたあないでしょうが、そういう気の持ち方が人を段々進歩させていくんじゃないでしょうかね。

 それから私がどうにも疑問なのが、

〉つまり、「読者」のいない小説は小説ではなく“チラシの裏”ってことです。

 これはタンソ説ということであるけれども、チキンさんも同じ考えでしょうか。

〉「イラストレーターになりたいのだったら、今日から『私の職業はイラストレーターだ』と公言すればいい」といってましたが、イラストレーターが小説家でも同じことなんですから。

 であれば、読者がいるかどうかなど気にする必要ないと思うんですがね。チラシの裏で何も構わないはずなんです。
 大体これでいいと思いますが、最後に、「馬鹿には小説は書けない」といったのは私でなく水村美苗です(典拠が思い出せないのが残念ですが)私も個人的には反感を覚えないではないですが、そういう風に一般大衆を見下した風な作家並びに批評家はいくらもいます。それに対してグレてても仕様がないんで、闘わないといけないのよ。自分も物を書きたいと思うなら。

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