再び、でんでんです。コメントをありがとうございました。
〉私にとって「ふとした瞬間」と許せるのは、たとえば自分が予想だにせぬタイミングで殴られた、という状況でした。これは想定外なので「ふとした瞬間」だなと。
思わず吹き出しそうになりましたが、面白い着想です。
僕にとっては、「ふとした瞬間」とは、たぶん、仕事を片づけた後や、電話を切った時、プラットホームで電車を待っている時、などに訪れる気がします。つまり、意識がそれまで受けていた拘束から開放され、次に向かうべき対象を失ったまま、つかのま空白の状態になった時、「ふと」は訪れるのだ、と言えるかもしれません。
無防備な状態になっている意識の前に、思念や事物が、急に立ち現れる。ぼんやりしていた意識が、あらためてその思念や事物をとらえ直そうとして、かすかに、ほんのかすかに、身構える。…そんなニュアンスをはらんだ言葉なのではないかな、と感じています。
無防備な意識が不意打ちされる、という意味では、エム ありすさんの「いきなり殴打される」感覚と、そう遠いものではないのかもしれない、と思いました。
〉人間の言葉というのはいいかげんな認識自動処理に基づいたものなんだろ、っていう不満からきてるんだろうな、と思った次第です。
「自動処理」という言葉こそ、僕が言いたかったことの核心を突く言葉です。
「ふとした瞬間」があるか・ないかと問われたなら、僕はわらさんと同じ意見で、少なくとも僕にはある、と答えるでしょう。しかし、(これは「ふと」に限ったことではなく、)認識の「自動処理」にまかせ、本当はもっと慎重に掘り下げてみるべき言葉までを轢き殺しているんじゃないか、という思いに、たびたび考えこんでしまいます。
僕は大江健三郎という作家を敬愛していますが、大江もまた、「翻訳調」と言われながら、言葉ひとつひとつを定義しなおすかのような文体をつくりあげてきたのでした。
周囲を見回せば、「自動処理」された言葉はこの世界にあふれかえっているように思います。「ふと」のように繊細なレベルから、「透き通るように青い空」、といった紋切り型の表現まで、言葉を選びとろうとするわれわれの前に、無数の選択肢が立ちはだかっています。言葉を経済効率に従って「自動処理」していくことの誘惑から、なんとか身を引きはがすようにして、書き続けるしかありません。
…終わりの方は、ひとりごとみたいになってしまいました。