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 わらさん、エム✝ありすさん、こんにちは。「ふと」をめぐる議論はとうに終わってしまったのかもしれませんが、とても興味深い話題に思えたので、ひとことつけ加えておきたいと思います。

 エム✝ありすさんはすでにご存知かもしれませんが、「ふと」という言葉のはらむ意味については、多和田葉子という作家が「「ふと」と「思わず」」というエッセイの中で、短いけれど本質的な考察を加えています(青土社刊『カタコトのうわごと』所収)。多和田葉子は日本語と同様にドイツ語でも小説を書き、評価されている作家です。
 多和田によれば、「ふと」や「思わず」に相当する単語はドイツ語には存在しないとのことで、「日本語を書く時に、必要以上にこのような単語に頼っていた」自分を再認識するとともに、それらの言葉の意味を徹底的に考え抜くことができたよかった、という意味のことを述べています。

 しかし、では「ふと」は普遍性を持たない、まやかしのレトリックに過ぎないのかというと、そんな安易な結論に一足飛びに飛びつくわけでもないのが、この作家の面白いところです。「ちょうどそちらに目を向けると、その時、」とか、「全く偶然に、」とか「気がつくと、」など、独和辞典に載っているさまざまな文例に異を唱えながら、多和田は「ふと」の意味をめぐる内省へと沈んでいきます。詳細はエッセイの本文に譲りますが、例えば、過去の出来事を語っている時に「ふと」という言葉が現れると、あたかも時制が現在に切り替わったかのように、「描かれる対象が認識の現在に連れ込まれる」。それを「作者が自分の世界に吸い込まれていく魔の瞬間」だとさえ、多和田は言い切ります。
 これはもう、ほとんど現象学的と言いたくなる省察ですが、僕はひとつの言葉をここまで突きつめて考えようとする多和田の姿勢に、共感します。

 小説を書きながら、普段何気なく使っている言葉を前にして、ふと違和感が心を横切った時は、「ふと」立ち止まってみること。その言葉をまるで外国語ででもあるかのように見つめなおし、その言葉がどんな意味を持つのか、なぜ違和感を抱くのか、その言葉をほかの言葉にどう置き換えることができるのか、考えてみること。それは、小説を書く人間にとっていいトレーニングになると思います。最終的に「ふと」を使うにせよ、使わないにせよ、そうした考察の積み重ねが、僕たち一人一人の書き手としての固有のモラルを形作っていき、そのモラルは、最終的には、その書き手が書く小説の「声」を決定するのだと、僕は考えています。

 かく言う僕にも、「やがて」とか「しばらくして」といった言葉を、頻繁に使ってしまう悪癖があります。特に、文字数の制約が厳しい「短編」では、時間の経過を簡単に表すことができるこうした言葉は、便利です。それから、「突然」や「不意に」も、場面の転換をお手軽に呼び込める魔法の言葉として、頼ってしまいがちです。
 内心、忸怩たる思いなのですが、こうした言葉の自動性に依存してしまうことは、実は、小説の中で時間の流れや切断を作り出していくための努力を、たやすく放棄してしまうことにほかなりません。それは書き手にとっての堕落でしょう。「やがて」や「突然」という語を避けようとすれば、時に大きな回り道を余儀なくされることもあるし、文体の自然な流れを放棄し、あえて生硬さを引き受ける必要が出てくることもあります。言葉の経済性やリーダビリティと、その言葉の持つ強度が必ずしも一致するわけではないことは、大江健三郎や中上健次、古井由吉の小説を読んでも明らかです。

 ちなみに、僕が今期、高橋唯さんの「輪」に深く感心したのは、この作者がこうしたお手軽な言葉たちの安易な誘惑に抗い、「手際良くなにも考えずに処理」することをかたくなに拒絶しながら、ただ描写の力によって小説内の時間を流れさせ、場面を次々に切り開こうとしているからです。そのような意味で、エム✝ありすさんと同様、高橋唯さんもまた、僕の目には、モラリストとして映っています。

 ではまた。

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