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9 第三木曜日 qbc

 二週間前。豊島園でのプール遊びの帰り、若い女は恋人と寝た。正上位の最中「オー脚」と恋人にけなされた。
 一週間前。女は江古田で徐行する車に撥ねられ左脚を捻挫した。ぼんやり子と意地悪く母親に笑われた。松葉杖が必要になった。

 七月の第三木曜日。女は小平の駅前にいた。ゼミのレポートを作成しなければならなかった。むつかしい課題で、手伝いに痩せた男の院生が来てくれた。
「ぼくは暗い人間なので、貴女のように快活な人だと助かります。喋るのは苦手ですから」
 女は、どうして私が明るいとお思いですか? と訊ねた。
「見た目から言って、そうではありませんか」
 女は太腿が露出したデニムのショートパンツを穿いていた。女は鮮やかなグリーンのちょうちん袖のブラウスを着ていた。
 いいえ。私は。大人しい人間だから。このように恰好から嘘をついているのです。

 女と院生は工場の奥で三人の老人に囲まれていた。パイプ椅子に座っていた。院生はメモ帳を手にしていた。女は録音機のスイッチを押した。
「町工場で働く定年退職者の意識調査」
 老人たちは色づいた。
「若い女の子と喋れるなんて嬉しいんですよ。年を取ったものは馬鹿にされる世の中です。ところで冷麦を茹でたのでお昼にしませんか?」
「いえ申し訳ありませんが」
 女は遠慮した。けれど院生は是非いただきますと答えた。
 老人たちは工場の給湯室に引っ込んだ。院生は女の肩をやさしく撫でた。君ね。誘いに乗ることで関係が円満になって口が滑りやすくなることもあるのだからね。
 冷麦を食べ終えた。薬味の葱が口の中で酷く匂った。黄金色の薬缶から麦茶を紙コップにもらった。
「きず、腐りませんか?」
 老人の一人が女の包帯を指して言った。いいえ。化膿止めを服んでいますから。
 院生の携帯電話が振動した。院生は電話で誰かと話すと、大変な用事ができたと女に申し置いて消えた。
「仕方がないですね」老人三人を一人で相手にする労を案じ、女の声はかすれた。「とにかく再開しましょう」
「どうも、さいきんの人の声は小さくて聞こえづらいね」
 老人の一人がパイプ椅子を女の方へ擦り寄せた。床はコンクリートだった。がちゃりと音がした。他の二人もそれに倣って女に近づいた。誰も彼もが私に対する加害者に成り得るんだと女は思った。
 老人の一人がシャツの袖を腕まくりして言った。
「この力瘤、若い人から見てどうですか」
「すばらしい筋肉だと思います」

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10 ばべぼぼぼべべ qbc

 このほど姉さんの背中が神懸かっていることに気づいた。
 台所に立つ姉さんを居間から眺めていた時のことだ。姉さんはお嫁に行っていた。半年振りに実家に戻っていた。
 姉さんは嫁ぎ先からの帰還の理由をぼくに説明してくれた。
「不倫よ」
 姉さんと旦那さんは仲良しなものだと思っていたから、いささか驚いた。姉さんは大根を千切りにしていた。
「腹が立つね」
「いいえ」
 私もしていたから。

 ある午後に姉さんの買物に付き合わされた。姉さんはぼくの大学生活を訊ねた。ぼくは姉さんの婚外恋愛について詳しい説明が欲しかった。
「似合いそう」
 姉さんは売物のマフラーをぼくの首に巻いた。灰色の縞模様だった。そしてぼくを鏡の前に立たせる。
「ほら似合った」
 姉さんが健やかに笑うので、ぼくは後ろめたい気持ちになった。

 その晩には居酒屋に付き合わされた。
 ぼくはそこで姉さんに質問した。ぼくを不倫相手の男代わりにして遊んでいたのか問うた。姉さんは素直に肯定した。それどころか、男が傍にいないと仕方のない女になったと主張した。ぼくはそれが癇に障り、つまらない人になったと感想を述べた。姉さんは呟いた。貴方と真逆のことを仰る男性もいます。

 二人でとてもよくお酒を呑んだ。スーパーでお酒を買い、帰宅しても呑んだ。
 姉さんは上着を脱いでノースリーブのシャツ姿になっていた。姉さんの上腕部は円く細かった。肌色が白かった。腕が肩口から床に向かって伸びている。植物みたいだった。たぶん生気がないからだろう。
 姉さんはぼくに言った。
「また私を観察しているのね」
 午前一時に姉さんは酔い潰れてしまった。居間で大の字になって眠ってしまった。
 ぼくは姉さんの頭にスーパーのポリ袋を被せた。ポリ袋は不透明だったから、姉さんのお酒で火照った頬はもう見えなくなった。
 姉さんの鞄から口紅を取り出す。口紅で、ポリ袋のちょうど姉さんの唇の部分のカーヴを塗った。
 その瞬間のことだ。
 姉さんの貝割れの茎のような腕が持ち上がり、ぼくの前腕部を掴んだ。力が強かった。掴まれていない部分の肉が盛り上がるほどだった。
 姉さんは言った。ポリ袋の向うからだったから、声がくぐもっている。
「どういうつもり?」
「ぼくの知らない貴女にならないで欲しい」
 姉さんは答えた。ばべぼぼぼべべ。ポリ袋が唇に触れてしまい、きちんとした発音にならなかった。
 ぼくはそれに言葉を返した。
「べばぼ、ばべば」

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