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曲名についてわざわざお調べいただいて恐縮です。


 私が障害児と教室を同じくしたのは、おそらく小学校のみだと記憶しています。
 障害のある彼と共に生きるには、私たちが多くの手を差し伸べなければならないこと、我慢強くあらねばならないこと、言葉にならぬ思いをくみ上げなくてはならないこと。教室ではそういったことを、経験的に学ぶことができました。それをごく普通の教室の風景と認識している時、今回のこの作品の風景を「ごく普通」と思うことはとても難しいと思います。
 いってみればファンタジーです。障害児と先生だけの教室を想像するのは非常に難しい。養護学級では実際どんな授業であったか私たちは知る由もないし、障害児のいる風景として思い出せるのは、やはり私たちと障害児と先生という集団なのですから。
 そこでは私たちは彼に遠慮するし、言ってはいけない事をやってはいけない事を頭で計算しながら接していたように思います。
 だからこそ、この作品の端々に見られる「ごく普通」と思われる描写に、これでいいのだろうかという疑念が浮かび上がってきてしまうのだろうと思います。微妙な問題を生じさせる国歌斉唱もからんできて、不可思議な作品という印象を与えてしまうのかもしれません。
 教育テレビで、筋肉が萎縮していく病気の少女とクラスメートのかかわりを放送したのを思い出しました。(娘が騒ぐので最後まで見れませんでしたが)彼女はしゃべることができないので、パソコンで言葉を打ち込んで(手ではなかったような気がします)それをパソコンに発声させているんですが、給食の終わりのときに皆と一緒に「ごちそうさま」が言いたいと学級会で提案します。彼女は飲み込むことができないので、口に入れて噛んで吐き出す事が給食時間にしていることなんですが、タイミングが合わず、なかなか「ごちそうさま」ができません。 クラスメートも一生懸命考えて提案していろいろ試すのですがうまくいきません。最終的には「いちにのさんはい!」のような掛声でタイミングを合わそうという提案が通ったのですが、彼女は納得しません。そういうことは抜きで、一緒に自然に「ごちそうさま」が言いたいというんです。そこで生徒の一人が言います。「それは○○ちゃんのわがままなんじゃないんですか?」
 私が見たのはそこまでです。これからどうやってこのクラスがこの問題を乗り越えていったのかはわかりません。
 この子の言葉や今回の作品に対応する術をもたないのは「想像力を欠いた狭量さ非寛容さ」がやはり私の側にもあるからかも知れません。
 取り留めのない文章になってしまいましたが、翻車魚さんの障害者観をうかがっての私の、今作品に対する感想とさせてください。

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