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議論がだんだん作品そのものと離れていっていますが、まあせっかくなので。

〉 車椅子に乗っている子にとってサーフィンをしたいと思うことが残酷(つまり、叶うはずのないことという意味なのでしょう)と切って捨てるような方がいるから、あえて書こうと思うのです。

社会的な問題と肉体的な問題を混同されているようですが、足が不自由な人がサーフィンをすることは不可能です。それは肉体的な問題であって、切って捨てるも何も、どうしようもない事実です。あるいは、足が不自由な人用に改良したサーフィン用具を作れば、とも思うかもしれませんが、それは少女が夢見た「サーフィン」とは別物ですよね。
そもそも僕が残酷だと言ったのは、「少女が夢を見ること」それ自体に対してではなく、それを描いた作者さんに対して言ったのです。実現不可能な夢を少女に語らせて、その後の葛藤も苦悩も受容も、なにひとつ描かない投げっぱなしに対して残酷だと思ったわけです。
(海坂さんの言葉を借りれば、これもまた「テクストの指向性」ということになるのですね。あの記事はとても簡潔にまとまっていて参考になりました。)

〉 「こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係」ない、というのは、おっしゃるとおりだと思います。しかし現実にそうなっているでしょうか?
現実の世界では、誰もが限定された自由の中で未来の選択を迫られています。障害者においては、肉体的問題から、その自由の枠組みが一段狭まっている、ということは既に述べました。しかし、こどもの時代には、自由の枠組みなんて無視して(または無自覚に)好きな夢を見ることができるのです。そういう意味で僕は「こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係」ないと書きました。

翻車魚さんがどの程度この問題について考えているのかはわかりません。しかし、残念ながら、「私が望むような障害者観」というのが一体何なのかほとんど見えてこないなあという感想を持ちました。

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