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個々の感想へのお礼を止めると言った矢先から感想書きまで止めてしまった黒田皐月です。発言しないならしないと徹底できず、意見を申し上げます。
三島由紀夫つながりで、未だ新たな仮面の構想はありません、ではなくて、三ヶ月前に初めて三島作品を読みました。『女方』。

海坂氏の二回の発言で二回とも言及のあった「左寄りのバイアス」、文壇に関わっておられる方は同じ「言葉」を用いる政治に対して敏感なのだろうかと思いました。氏のご意見はそのようなものであると読むべきではないかと、私は思います。
私の『<叶う>の反意語は<破れる>ではなく』の感想ですが、障害者がバレーボールの試合を通じて世界を垣間見たことに感動して自分もそこを目指す姿を中心に据えさらに教員の想いも描いた良作だと思いました。すべてが不可分であると思いますため、匿名氏の「結びつきが弱い」とのご意見には賛成できません。
議論は作品中の国歌の扱いのことですが、私は「バレーボール選手に付随しているもの」と読みました。世界を見せてくれた選手たちの一部であり、それを真似ることが憧れに近づくことだと主人公は信じているものだと読みました。だから、そこには国家観はないと思います。

「テクストそれ自体の示す方向性」については、作者の意図を伝えられる書き方を目指すべきだということでしょうか。確かに文章は、言葉とは即ち記号であり、意図を完全に包括させられないものです。ですが、海坂氏のご意見は、本当に「方向性」という言葉で論ずるべき事項なのでしょうか。作品中に国歌に関する言葉が、多かったと言えるでしょうか。私には「読み方」という言葉で論ずるべきことのようにしか思えません。
それから、作品感想から離れますが、ここまでの海坂氏の発言からは「彼らの夢と国家とが、同程度の虚構」とはとても思えません。ふたつの虚構性はまるで異質のものであると思われます。そうであればこそ、違和感を持ったのかもしれません。「国家の虚構性」については、国民のために国家があるのであり、それをすり替えて国家があるからこそ国民が存在できるとして本来は実体のない「国家」を実体のあるものにしようとする全体主義への反論と読みました。

まとまりのない発言ですが、最後にqbc氏の『少年たちは薔薇と百合を求めて』はまた異質なファンタジーで、同列に扱うべきものではないと思うことを申し上げまして、終わりにしたく思います。

投票数三票の決まりは早期に実行すべきだと思う、黒田皐月でした。

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