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 どうも初めまして。何だか私が感想を書いたとたんに掲示板の動きがフリーズしたんじゃないかと思っていたんですけども、こうしてお話しできる機会があって嬉しく思います。
 
 テクストには「作者の意図」と言うより、テクストそれ自体の示す方向性があると私は思うのですが、そういう観点からすると、この千文字の中に国歌・国旗の占める比重はやはり大きいと言わざるを得ません。個人の自己実現というか帰属意識というか、そういうものの対象として国家が扱われています。
 確かに「世界」の意味にはゆれがあって、「愛ちゃんのように世界に行く」「お父さんのようにオーストラリアにサーフィンに行く」と言った場合は、明らかに国家の色はほとんど抜けています。ところがその直後にまた国歌斉唱で「世界を輝かしいものに」云々と来てラスト、というのはなんとも違和感があります。

 どうもうまく説明できてない気がしますが、もう作品そのものから離れて勝手な話をしますと、国家というものは油断しているとこうして私たちの意識の中に潜り込もうとして来るものなんです。本来仮象であるものが、知らないうちに正当な位置を占めようとして狙っている。たとえばバレーにせよサッカーにせよ、子供たちが格好良いと見て憧れるのはまず選手一人ひとりの超人的な技であるのが自然だし、そうあってほしいと私は思うのです。
 この作品でも、子供たちが真剣にバレーの練習をするシーンはたいへん魅力的に描かれていまして、それだけに、どうしてこの子たちは日の丸君が代をこんなに意識するのかなあと。

 そしてさらに、その子たちは障碍者であるという設定によって、それらの〈夢〉がいっそう仮想のものとなるために、同じくフィクションである〈国家〉が馴染みよく見えてくるわけです。今思いつきましたけども、文学のフィクションを強くするために〈国家〉を道具立てとして使っているという意味で、三島由紀夫に似たものがあるかと思えます。

 で、やはり私としてはそういう行き方は不健康じゃないかと思うわけです。障碍者を書いちゃいけないと言うのではなく、作者の実体験のあるなしを問うているのでもなく、創作意識の問題としてどうなんだろうかと。

 いろいろ長々書き連ねましたが、結局は思想信条のバイアスという話になるのかも知れません。「国家国旗に過敏に反応する方」だと思って聞き流して下さればと思います。しかしこの辺の問題については、他の方の意見もぜひ聞いてみたい気がするのですが。

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