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 最近は私自身は作品も感想も書けていなくて、掲示板に書くのはよそうかと思っていたのですが、興味深い論点がいろいろ出ているように思うので、いささか考えを述べてみたいと思います。
 まずそもそも「オチ」とは一体何であろうか、ということであります。「オチ」のある短い話として、すぐに思い浮かぶのは落語というジャンルですが、これは笑いを必須条件としていて、オチはそれと不可分のものといえます。すなわちオチの役割としては相当限定されたものです。
 では私たちが一般的に、話に落ちが付いたと感じるのはどういう時かと考えてみますと、一つの安定点に至ったという感覚であり、具体的には謎の開示、あるいは、新たな意味の付与、という言い方が仮にできるように思います。
――この辺はいま個人的に浮かんだことを咄嗟に書いています。おそらく研究するつもりであればすでにいろいろ先行があるでしょう。物語論とかいう分野になるはずです。
 そうすると、『短編』作品にはこの意味での落ちのある作品は、けっして少なくないと思うのであります。むしろ私の見るところ、きっちり落ちている作品の方が多いのではないか。今期から一つだけ例を挙げるとすればNo15『わくわく』など、まさに意外性を持ったオチと言えるでしょう。もちろん他にもきちんと決着したと感じられる作品も多いのはないでしょうか。
 そしてもう一つの論点は、オチのある作品が本当にすぐれているのか、あるいは、オチのない作品は駄目なのか、ということであり、さらには、プロの小説は必ずオチているのか、ということです。
 さて、票感想では「オチ」「スピード」「意外性」が挙げられていたのに対して、掲示板では改めて「テーマ」という概念が持ち出されています。テーマがないと小説ではないという論ですが、これも一考の余地があります。
 と言いますのは、古い話ですがかつて菊池寛の一部の作品はまさに「テーマ小説」と言われました。(長文書いてるうちにロチェスター氏に先越されちまったぜ。『眼中の人』は私も読みたいです)『恩讐の彼方に』とか『父帰る』などですね。こういうのは大衆も含めて広く受けたのですが、一方に、本当の文学は、一言で語れるテーマやわかりやすいオチがあってはいかん、という考え方もあったのです。ついでに言えば虚構も使っちゃいかん。自分の経験した事実だけ書く。今ではいささか混乱してきていますが、大体こういう暗黙の約束事に基づいて成立したのが純文学という奴ですね。
 今日にありましても、この二つの潮流は相容れがたく併存しているのでして、重松清とか石田衣良なら常にわかりやすいテーマがあるかも知れないけれども、一方には……誰でもいいんですがたとえば笙野頼子だってプロの作家なわけです。
――笙野頼子の小説にはテーマがない、と言ったら間違いになるでしょう。男社会への異議申し立てという強烈な主題があるのですが、明らかに大衆文学(というのも問題のある用語ですな)的なテーマのあり方とは違うわけです。
〉テーマがない作品、テーマに気づかすことが出来ない作品
という言い方をされていますが、この後半に注目で、『短編』には確かにテーマがわかりにくい作品がありますね。必然的に判りにくくなってしまったのか、私の読みに穴があいているのか、と色々考えてつい深読みしてしまったりしますが、一面それは純文学中毒でもあって、こんな風にすこーんと叩き斬ってくれる読者は貴重なのであります。本当に。
 最後にしかし、オチ・テーマ等があるかないか、とプロ志向とは、全く関係がないのではないかと思います。かくいう私だってプロを目指しているのですけども、問題はオチ・テーマではないと考えています。じゃ何か? それが判れば苦労はないのですが(笑)一つだけ言えることは、まず原稿用紙百枚書けないと話が始まらない(泣)それが実は千字を封印している理由だったりします。
 
 以下別件ですが。

 黒田皐月さんが『文学極道』なるサイトを紹介されていますが、
〉恐らく『短編』に投稿されている作品のうちの相当数は歯牙にもかけられないかと思われます。
 というコメントにピキッと反応したのは私だけでしょうか(笑)。謙譲の精神の発現と思いますが、仮定の話で、十把一絡げにサイト全体を評定するような言い方は如何なものかと感じました。
 言っちゃ何ですけど、向こうだって寝言みたいな作品はいくらもあると思いません?

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