仮掲示板

しばらく留守で

失礼しておりました。

 「暑寒」(川野佑己さん作)の感想については、「こう読んだら面白い」と自分が思うことを書いているうちにできあがりました。たくさんの記事がついていてびっくりしました。他の方の感想も読ませていただきましたが、それに異見しようとかそういう意図ではありませんです。

 つけていただいた記事を読んで、改めて自分の読み方を考えることができました。海坂さんの仰るように、もっと語り手個人の感覚に引きつけて読むという読み方をしていなかったなあと思います。また、チキンさんのように、語り手の姿と物語を想像するということもしていませんでした。
 また「暑寒」について「暑寒別」を持ち出したのは文章が地名の音と意味を論じるスタイルを採っており、アイヌの地名の音を日本語の漢字表記に転じることが例として出されていたためです。「暑寒」=「所感」は考えないでもなかったのですが、より凝った見解を打ち出すことを優先してしまったに過ぎず、今はもっとシンプルに、「所感」の音から転じたと解釈してもいいのかとも思っています。


 ところで点数をつけることについて議論が出ておりますが、私のような小心者からしてみると、人の作品を点数化して評価するという姿勢で読み、かつ記事を出すなんて度胸のある真似は到底できません。

 チキンさんに向けての私の意見として申し上げますが、「評価する」という言葉を用い点数をつけて感想を出した場合、単なる「読者」ではなく「評価者・採点者」と自分を位置づけることになります。これは自分がそう思わなくても、周囲から「評価して点数をつける人」と見られるわけです。
 「評価者・採点者」として見られる場合、その人の文章は「読んでどう感じたか(思ったか)の個人的感想」ではなく、「ある基準に照らした作品の客観的批評」と判断されます。すると、その人個人の思いを書いた、というだけでは済まされず、その判断根拠と配点方法の妥当性が他者から問われる、そうした事態に晒されます。根拠が書かれない限り問われ続けるもので、書いたら書いたで妥当性が議論されます。そういうことがあっておかしくないだけの言葉の威力が「評価」「点数」にはあるのだと思います。


 「評価」ということとは少しずれますが、掲示板における読者感想投稿は、出版社の読者アンケートのように一方通行のものとは異なります。つまり無謬の侵しがたいものとして絶対的に許容されるのではなく、他の読み方をする人の目に晒され、場合によっては感想も批評されるわけです。チキンさんが私の感想や海坂さんの感想を読んで何かを感じ取られ、それについての感想を入れつつ、返信の形で作品感想を再度お書きになっているように。

 海坂さんの言葉をお借りすると、「感想も一つの作品であると私は考えます。当然それについての感想もあり得ます。簡単にいえば、作品をけなす以上、自分の感想文もテクストとしての出来を問われるのを覚悟すべきだと言うことです」に近いものとなります。チキンさんが語っておられる「一度投稿してしまえば、必ず反応があります。もちろん歓迎ばかりではなく、手痛い批評がある場合もあるでしょう。しかしながら、それは書き手にとって覚悟の上での投稿ですので次へのステップだと考えれば受け入れることができます」ということが感想というテクストにも当てはまり、人に覚悟を求めるなら自分も評価される覚悟を持て、ということにもなるわけです。たとえ個人的な感想であっても、感想の文言に対して批評が行われるのは、そうした理由によるのです。対話型の掲示板である以上、それを止めることは難しい。誰だって自分の好きな作品がけなされれば文句の一つもいいたくなるってものでしょうね。

 いずれにしても私を含めて、十分な覚悟ができている人だけが作品を投稿し、あるいは感想を書いているわけではないことは、何となくおわかりいただけているのではないでしょうか。


 さて、「評価」に話を戻しますが、「短編」に投稿される作品をあえてジャンル分けしようとすると、ライトノベルを意識して書かれたもの、文学志向の強いもの、ショートショート的なもの、ジュブナイルを目指していると思われるもの、などかなり多彩です。そして、それらを一つの評価で括ることは困難です。これら複数の方向を向いた作品にはそれぞれの面白さがあり、あるいはそれぞれの作品に(異なる、あるいは類似の)努力の必要な部分があるのだと思います。

 商業誌レベルの話を例に出しますが、例えば先日芥川賞を獲った諏訪哲史氏の「アサッテの人」(群像新人賞受賞作)が電撃大賞を受賞できるかと言えば多分そうではないでしょう。宮部みゆき氏は「龍は眠る」で日本推理作家協会賞、「理由」で直木賞、「蒲生邸事件」でSF大賞を受賞しています。「蒲生邸事件」は直木賞候補にもあがったようですが、作品を取り替えて他の賞を受賞できるわけではないように思えます。

 そういうわけで、小説の「評価」は多様であるため、「評価」あるいは「点数化」には慎重にならざるを得ない、というのが私の意見です。


 私個人の話になりますが、私は読み方も偏っておりますし、人様の作品に点数をつけるほどたくさんの本を読んだわけでもないから、評価するというのはおこがましいと思っています。そのくせ内面では、自分の基準に照らして評価しようという姿勢が、いくら消し去ろうとしてもどうしてもどこかにあるのです。それはそういう読み方をしてきたからです。だから読んで感想を書いても、どこか評価めいていたりします。
 したがって、感想を公開する時はかなり推敲します。自分の性癖に撹乱されずに、伝えたいことを人にわかってもらうためには、言葉に慎重にならざるを得ない、と思うからです。推敲してこの程度かと言われれば、まあそれまでなのですが。

 しかしそれはあくまで私のことであって、他の方が素敵だと思った作品を素直に素敵だと表現することを制約するものではないと思っています。お互いの感想をきっかけとして、良い対話が生まれるといいですよね。


追記。

 親記事における私の記述に不正確な部分を発見したしました。

> 似たような幻想小説の書き方を「クトゥルー神話体系」を編纂したH・G・ラヴクラフトがしているが、

→「ク・リトル・リトル神話体系」などに収められるH・P・ラヴクラフトの作品に似たような幻想小説の書き方が見られるが、

 以上の様に読み替えていただければ幸いです。

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