40 夏休み
子供の頃は、何か目に見えない膜のようなものに包まれていた気がする。膜の中ではすべてが可能であり、すべてが自由なのだ。気が向いたときに神様とだって話すことができた――もちろん言葉など使わずに。でも、人間の“言葉”は膜の中の空気を少しづつ汚染し、私たちから、神様や自由や可能(何でも出来る)を遠ざけていく。でも私たちは、ただ“言葉”に汚染されていったわけではない。“言葉”に抗うために、あらゆることを試みたはずである。夏のある日、兄と妹がふとのめり込んだ秘密の遊戯も、きっと膜の中を汚染しつつある“言葉”に抗うための、本能的な反応だったのだ。兄妹を包みこんだ、薄い光を通すタオルケットは、子供時代の“膜”であり、タオルケット(=膜)の中は、言葉が不用な、あるいは言葉の通用しない、神話のような空間だったに違いない。
子供の頃は、誰もがそんな目に見えない“膜”を持っていた。子供はみな神様に愛されていた。夏休みの記憶は、子供時代の“膜”の中の記憶なのだ。もう子供ではなくなった、“膜”を棄てた大人たちは、子供の頃あれほど抗ってきた“言葉”の世界を生きている。やけに窮屈な気がすると思ってた。でもそれはそれでいいのかな……。どんどん夏が遠ざかっていく。時々、胸が締め付けられるような気分になる。あのなつかしい“膜”の記憶を、いつもどこかで追い求めている。
だから、小説なんてものを書いてしまうのでしょうね。
以上です。