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本文: 〉 第一印象を大切にしよう。わたしは毎月4日に投稿をする。統計はどうか知らないが、投稿が後半の作者の方が上位にくると感じている。 〉 〉「知らない教室への手紙」 〉 寒さが原因なのか、冬になると悲しい小説が流行すると感じることがある。 〉 (震えている→暖かい部屋でぬくぬくしている)(温室→病室)など、手紙形式の中で正反対の表現を交互に書くことが、どうも感情移入を妨げている。というか、手紙として分かりにくい構造である。 〉 あと、主人公が誰なのかが明確ではない(主人公が宛てた先の学生と同年代とも思えるが、もっと歳上のようでもある)ので、とっかかりがなく、すごく曖昧な後味が残る。 〉 結果として、病気というインパクトだけで何となく書いてしまった印象が強い。 〉 〉「同士討ち」 〉 時代設定や場所からなのか、垢で汚れた何かを読んでいるかのようで、絵空事という印象を持ちました。何故、74年前なのかとの疑問(小説だからこんな設定を作ってしまったのか)が残ります。現代、または背伸びをしない今を背景に二人のやり取りを書いていればもっと違った印象が残ったのかもしれませんが、時代設定を否定しているのではありません。ただ、戦争を背景に描こうとしているようですが、その効果はあまり現れていないように感じました。 〉 人を表現するための手段であれば、説明を省き、同士のやりとりをもっと克明にしても良かったのではないか、と考えてしまうのは「騎士団長殺し」と比較したからです。設定や状況の説明のみで、結局「同士討ち」で何を言いたかったのかが分かりませんでした。 〉 〉「snow and letter」 〉 構造がどうも引っかかってしまい、小説として読むのには抵抗がありました。 〉 年賀状を手紙と表現する違和感、葉書と書いた方がしっくりくるのではないだろうか。 〉 年賀はがきの当選発表は1月中頃、その時期にくる年賀状ってあまりにも遅くはないだろうか。 〉 手に取ったその場で葉書を読んでいるのだろうと想像して、外では雪が降っている、という場面から部屋であること(積もった雪が見られるということで窓際に立っていると推察。母親と同じ一階の部屋、バイクの背中を見送ることができるのはマンションではなく路に面した一戸建てであろう)が分かる。 〉 しかし、最後の、雪を蹴り飛ばした、という場面で、どこで読んでいるのかがまた分からなくなって(やはり外だったのかと思う)しまう。主人公の心の葛藤を感じる前に、設定の甘さが目に付いてしまった。 〉 〉「ビフ・タネンは2017年大統領に」 〉 宇野さん、お元気ですか? 〉 〉「夢燐」▲ 〉 タイトルの読み方が分からない。きわめて防御的な書き方。 〉 何を言っているのか分からない、ということは分かるし、それは悪いことではない。まったく意味の違う言葉をつないでいくことで、そこにリズムが生まれる。言葉のチョイスは作者のセンスに関わってくるが、チョイスはうまくいっていると思う。こんな感じを立川談志は言葉のイリュージヨンと表現していたが、今回、それは成功している。ただ、開け放たれているというよりは、読み手を遮断する防御的な書き方に見える。 〉 〉「めぐるめぐすり」▲○ 〉 またまた、またまた、作者らしい。このスタンスを続けるの結構大変なのではないだろうか。それとも、こういった資質のものしか書けなくなってしまったのか。それはさておき、貫き通すことは大切で、それがハマれば爆発はすごい。だんだんと体温が上がり、読む速度が速くなっていくのが体感できる数少ない作者のひとりである。今回は(も)良かったのではないだろうか。先に書いたイリュージョンも成功している。 〉 〉「朱に染まれ試みろ」▲ 〉 怒りと性欲が交互に描写される場面は面白い。ただ、最後の締まりがイマイチしっくりこない。トマトを握りつぶす激しさが途端に勢力を失い失速する感じの改行後のワーキングランチのくだり。まとめようとして手を入れ過ぎてしまったか。悪くない題材なだけに、そこが残念でならない。 〉 〉「騎士団長殺し」▲○ 〉 前作の流れを組む語り口。 〉 私と彼ではなく、彼と私というところに彼主体の想いがあるように感じた。そこには、独立した私があり、独立した騎士団長がある。私は彼に寄り添うことで彼と生きていく決意をする。彼が死に、以降、私たちという表現に変わった。ここは騎士団長と私ではなく、私と騎士団長である。 〉「私たちをおぼえているかと私たちは言った」 〉 これは私の発言である。騎士団長の発言ならば「私たちをおぼえているかと騎士団長は言った」となる。 〉 一歩間違えば陳腐な小説となってしまうが、踏みとどまっているところに好感が持てる。 〉 〉「ドリンク」 〉 無意味な言動を書き列ね、その先の意味を問う。 〉 〉「マネキン」 〉 マネキンを擬人化するという表現(あまりにも手アカが付き過ぎている)にどことなく嘘くささがあり、それが小説に移入する感情を妨げているのでしょうか。作者らしい飛躍は見られますが、最後までマネキンが読者を小説に入らせてくれないようなのです。何作が続いた圧倒的な飛躍がないと、やはり、寂しいものです。悪くはないと思いますが、この作者にはもっとハッとさせられるものを期待します。 〉 〉「DODO'S BACK」 〉 人は変わっていくとは書いてあるが、単に痩せて家族連れだったということだけで、元彼女が変わったわけでもなく、そもそもオレ自身に変化が見られない、というところを思うと、太っていた元彼女の特異な描写や、リッツ・カールトンという不思議な響きだけが残ってしまい、それは人の変化ではなく、シンボリックな言葉遊びである。シャレた言葉で飾ったうさん臭さを私は感じる。遊びなら遊びに徹してほしい。 〉 〉「ヤドカリ」 〉 ヤドカリという生物を借りて、マイホームを持つことの意味を書く。あまりにも当たり前過ぎて拍子抜けしてしまい戸惑いが残る。それは、たぶん、マイホームを買ったのが誰か、ということを明確に書いていないからなのではないだろうか。 〉 語り手がヤドカリの死んでいく経過の中で、どこかで聞いたマイホーム購入の情報を思う。それよりは、語り手が体験したマイホームのローン、家族の生活などを書いた方が読者の心を揺さぶることができたのかも知れない。 〉 〉「そして夜は俄に輝きを増して」● 〉 前半の靄に隠れた助走から、後半の開け放たれる感情の持って行き方はドラマチック。「あまりにもオリオン座」「バカみたいに明るい月」など、悲しさとの対比で表現される言葉群が心地良かった。こういう傾向の小説はどうしても暗くなりがちだが、それがなく、明日(今日)が見えてくる。これは重要なことで、明るい気持ちを誘う小説はやはりいい。ただ、こういった何気ない日常を切り取った小説は往々にして推進力に欠ける。この静けさを良しとするか、物足りなさを感じるかで票が分かれるところだ。
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