仮掲示板

第168期の感想

「SLIP」
 ごく当たり前のことが書いてあるだけだから、評価のしようがない。文章はまともだけれど面白くはないというのが第一印象。
 何故、墓参りに来たのか。それは単なる儀式だからとか、海外だったから葬儀に参列できなかったというようなことではなく、もっと別な意味があったはずである。父を見る主人公なのか、はたまた、主人公を見る父なのか、いずれにせよ、そこには対話があって、そこから冒頭の言葉に繋がっていると思うのだが。父親と並んで歩くという状況の描写はあるが、それが葛藤なのか、嫉妬なのか、恨みなのか、安堵なのか、そこらへんの心の動きが書かれていなので面白くないとした。

「逃避少女」
 父親が死んだ情報がたった数文字とは変である。これって結構重要なキーワードだと思うのだけれども、それよりも学校に行かないことの方が重要になっていることへの不信感はある。だから、死んだ人間を前にした精神状態がこの小説ではどうしても想像できなかった。
 それでも、父親の死がなければ平凡な小説になっていたし、父親の死の情報を極力減らしたことが作者の意図であれば、それは結構潔くて、考えるために一歩踏みとどまらせる効果は十分あるように思った。でも、やはり、父親の死をもっと重要な要素として取り込むか、または完全になくしても良かったんではないだろうかも思っている。

「女神」
 よくある話はよくあるのだからあえて書かなくてもいい。自殺した彼女を思う心情を作者(主人公ではなく作者)はきっと分かっているはずである。けれどもそれが書けていない。なぜ女神なのかとか、もっと書けることはあるはずだ。ただ、作者にその心情はあってもそれを文字にすることは難しく、作者というものは案外それに気付けないことも多い。それに、とても済まない気持ちとか、そういった「気持ち」をあらわすのに「気持ち」という文字を持ち出したって、あまり伝わらない。「気持ち」があることは前提なので、その「気持ち」をどう別の文字で表現するのか。そのことが重要である。
 また、この文字数では小説になる前のプロット的なあらすじにしかならないと考える。だから、評価はできないとする。

「「貴方を内臓で叩き潰しちゃった」」●
 こういった誤字脱字を悪いとは思わない。ただ、これが意図的なのかが不明なので、次作も読まなければ評価はできない。今作だけで言えば、もっと丁寧に情報を入れ、この破綻を保ちつつ、文字数を増やしてほしいと思った。あと、それとは別に無駄な改行は鼻につく。
 こういった文章は作者の特性からくるのか、もしくは、意図的な操作なのか。正しい日本語ではないが、その衝動は伝わっているので、こういう書き方は有りであると僕は思う。ただ、次作も読まなければ評価はできない。やはり、こういった小説を読むと「猫田道子」のことを考えてしまう。次作はどうなのであろうか。

「蝉時雨、最後の夏」
 はじめに、主人公が本当に死ぬのなら、これが本当に最後の夏だったのなら、もっと何かが書けるんじゃないかと思った。この小説では、主人公が本当に病気だと(そういう感傷にひたっているだけで)確定もしていないし、死というテーマを入れてはみたものの、その先まで考えられていない印象を持った。
 作者はきっと壮大な感情を元にこのような小説を思いついたはずである、と思うのであるが、それが、何も伝わってこない。「女神」と同じで、作者はもっと書きたいことがあったんではないのであろうか、とあらためて思うと残念である。

「See you in NYC」
 前回にも書いたが、これは記録なので、僕は小説としては評価できない。短い感想で申し訳ないです。

「ラスボス」
 だから何なのだ、ということをまず最初に思った。結局、自分が倒したラスボスも本当は誰か知らないプレーヤーが、もちろんそのプレーヤーもその前にいたラスボスと称していたものを倒してのことではあるが、その前の前にいたプレーヤーも、その前の前の前のプレーヤーも、と、延々と続く戦いにうんざりしてしまう、というようなことを考えていたのだが、どうやらそれは違っていて、自分と後輩、どちらかは真実ではないようである、という結末を作者は選択している。
 どちらかが真実。この変換情報を持ち出すことで話がすごく面倒になっているように思う。平和のない戦いのループから、別の(真実から目を逸らす)世界へ、無理矢理に持っていこうとしているような。単純に延々と続く戦いにしておけば、潔かったのではないかと思うのは間違いであろうか。

「どの面下げて」
 どこかで見聞きした怪談話を元ネタにしているようであるが、作者独自のユーモアで、最後は軽い感じに終わらせる小説。このパターンがハマるとすごく面白くなるのであるが、今回は「takeo」や「整える石川芙美子」のような一種凶器じみた面白さはなかった。消化不良というのか、小手先で書いたというのか、結局、読者は高望みしているで、やはり、こういう系統の小説が続くと、よほどの展開を提示しないと、面白くはない、という感想になってしまう。

「編み物」
 アッケラカンとしている。このアッケラカンというのは、前回の感想にも書いたカゲの部分の欠如のことである。例えば、ドライな会話が強調されていたり、例えば、枯れた空間が心地良かったり、例えば、そういった起伏が何もなくても、この小説を読むだけで、その空間にいることが愛おしくなるような、そんな小説を希望しているが、どうも、やはり、アッケラカンとしている。

「喧嘩」
 誰かからもらった感情をさも自分が生み出したかのように書かれてしまった小説。こういう気持ちって誰でも経験するから、共感という意味では読者をくすぐる場合だって考えられる。けれど、やはり平凡な印象は否めない。書きたかったこと、言いたかったことは十分理解できるが、評価できるかといったら、そうではない。もっと主人公独自の、これって変なのかもしれない、と思われてしまうような態度とか、言葉、そんなものが垣間みられたら良かったのになと思う。
 こういった感情の小説を全てはき出した先にある、作者の根底の部分がむき出しになった小説を早く書いてほしい。

「乾電池 月末月旅行」
 偉そうな感想を書いているのに、こんな陳腐なものを書いてしまって、ホント嫌になってしまう。

「兄弟仁義(仮)」
 またまた凶器じみている。何のための行為なのか、読み進むにつれ分かるかと思ったが、結局何の説明もない。それがいい。読者に考えさせるスキを与える。やっていることはえげつないが、一種、ドタバタ劇のような、例えば、「グーニーズ」の悪役一家のような、「ラピュタ」の空賊のような面白さはある。ただ、読めない名前にはうんざりする。この小説で、名前はそれほど重要な意味を持っていない。登場人物の名前の読みにつまづくことですんなりと小説が入ってこないのは読んでいても気分半減である。極端な話、登場人物A・B・Cでいいような気もするが、例えば、最初にカッコ書きでふりがなを付けるとか、カタカナ表記にするとか、もっと単純な名前にするとか、そこらへんを考えてほしいと思った。と書いて、「光宙」という字を検索したらピカチュウと読むことが分かった。(長男と次男については不明)DQNネームとかキラキラネームとか言われる類いである。そうなると、果たしてもっと別な意味が込められていたのかとも思うが僕には理解できなかった。
 あと、タイトルがどうも気になっている。最初、このタイトルで作品を読む気が失せた。そそらないというか、気分を半減させるというか、とにかく、僕はこのタイトルが好きではない。

「蜃気楼」●
 面白いと思いました。ただ、評価に迷っています。閉塞された空間に取り残される話は結構たくさんあると感じているからです。面白いけれど、それってもしかして、僕が以前読んだ、または観たことのある、こういった系統の話の記憶からくるものかも知れない。そう考えると評価に一歩踏みとどまってしまうのは事実です。

《忘れられない記憶があって、それはテレビ番組だったのだけれども、ある朝、家の外が全てジャングルになっていた……という。それは結局「終わりに見た街」というドラマだったのだけれども、この作品が2005年に再ドラマ化されたことにより、自分の中の記憶が作品タイトルも含め明確なものになったんです。曖昧に記憶していたことが、思い込みか真実か明確になったことの喜び。
 そういった気持ちを蘇らせる小説であった……、と書いている最中、何かとてつもなく壮大なストーリーを夢だったのか、何だったのか思い描いていて、考えていたことはあったと思うのですが、それがどんなストーリーだったのかが全て消えていて今すごくもどかしい。》

 でも、やはり面白いと思います。次回も作品を発表してほしいと思います。

「彼に幸あれ」
 本の虫、といわれる人たちが、例えばギャンブル依存のように読書依存と否定されることは少ない。結局、何を読んだのではなく、どれだけ読んだかになってしまうと、それって小説が好きなのではなく、文字に溺れているだけなのだと思う。こういう人種を僕は可哀想だと思う。
 転じて、シミを見つけてそれが絵になる、という表現は面白いと思う。言語を認識して意味を理解する本(だから認識に時間がかかる)と、視覚から入ってきた色などの情報から評価を瞬時に判断する絵(鑑賞者の生い立ちなどの影響で好き嫌いを一瞬で判断する)。これが本と絵の違いだと思う。絵という情報を伝達する際、結局それは文字に頼ることになり、解説もやはり文字である。ただ、それは絵の本質を文字に置き換えている(宗教画などでは文字を読めない人にも理解できるように絵はあるが)のではなく、作者の感情や時代背景を補足する手段であって、主人公はきっと文字に頼らなくてもいい絵を見つけられたのだと思う。ただ、それがどんな絵なのかを想像できないのがもどかしい。

「速報」
 この感想が一番最後になった。それはさておき、まさしく、マスターベーションのような小説であると思った。この前に「クマモト地震」の感想を考えていて、余計にこの「速報」という小説は、嫌だなぁ、という感覚である。感情がないというか、こう書いて、こう書けばいいだろう、体裁はあるだろう、といった作者の気持ちが僕に刺さるというのか、だから、ちょっと、休憩する。

「西武新宿ペペ下」●
 心情の変化があって街を歩くと、普段とは違う視点での発見があったりする。性行為からの喪失は男なら多少なりとも分かることではある。結局なんだっていい。今の主人公には、喪失された視点からしかその世界が見えないのであるから。
 それと、作者の醍醐味は会話にあると僕は考えている。今回、会話はなかったが、日常を描ききる姿勢には脱帽する。この作品には人間が描かれている。だから、何気なくてもそれだけでいいのだと思う。パンチはないが、奥行きある作品である。
 モレスキンという響きを卑猥に感じるのは僕だけであろうか。

「クマモト地震」
《311以前と以降で創作における作品表現の意味が変わった、などと言われる。「あいちトリエンナーレ2013」では、311を直接的に表現するものが多かった。この直接的な表現が成功であれば、その作品は昇華されることとなる。ひるがえって「あいちトリエンナーレ2016」では、既に311の影はなく、影がないことを歓迎すべきではあるが、作品の意味を考えた場合、どこか納得いかないというのか、奥行きのない寂しさを感じてしまう。》

 作者の比喩を使った作品の中でも「反論」は好きであった。さて、この小説であるが、もういいじゃないか(311とクマモトという違いはあるが)と感じているのは僕だけではないと思うがいかがであろうか。小説のエッセンスとして「クマモト」または「震災のイメージ」があるのであれば、まだ考えさせるものがあったのかも知れない。だって、どうぞ悲しんでください、どうか考えてください、と一方的に言われたって否定できるテーマでないのは明らかではないか。読者がこのテーマを与えられた瞬間、無下にはできなくなってしまうではないか。先に書いた直接的な表現の成功のことを言えば、この小説は昇華の対象にはないと思う。

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