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 ため息が夜に溶ける。
 樹冠は世界の果てを滲ませる。木々が木々を抱き、深くこの地を森の奥へと隠した。磁場を迷わせ光も屈折させるこの森を、かつて人は根こそぎ手に入れようと多くの血を流したが、犠牲と引き換えに得るものは何もなかった。この森が、侵略者を排除するのだ。大切な古代の夢を胸に秘めながら。
  
 その巨木は森の始まりであった。幹には幾多の蔦が絡みつき、どこまでが木であるかわからぬほど深く溶け合っていた。その肌に寄りかかる娘が一人、またため息をつく。褐色の肌は夜露にしっとりと輝き、緑の目は夜の気配にためらう。
 彼女こそ森が隠した美しき種族。虎の耳を持ち、豹の尾をゆらし、ジャガーの足を持つ。穢れず純粋な血をそのままに、この世で一番美しいと森が認めた彼らを森はひたすらに隠した。

 夜の森はいつになくつめたい気がして、娘は体を震わせた。心臓の音に押しつぶされそうだ。彼女は巨木の下にいて、彼に守られていながら、心は遠く離れていた。
 それは巨木を悪戯に登ったあの日、好奇心にあふれた若い彼女は、森を抜け空を目指した。降り注ぐ陽光に目をくらませつつも、巨木のてっぺんから世界を見下ろしたのだ。光あふれる人々の暮らしを。瞳は澄んで、果てまで見渡せた。彼女の住まう森を取り囲む大河の煌きを。そこに身を任せ、機敏な動きで獲物を捕らえる少年の姿を。

 それが始まりであったかもしれない。彼女が目を奪われた光景は彼女を守る森さえ、鎖に変えてしまう。空を見上げては果てのない木々を呪い、光の射さぬこの地を憎むようになる。忘れようと思う、しかしそれがまた彼女の胸を締め付けるのだ。もう立ち止まっていられない。彼女は立ち上がる。彼女を慈しんだ巨木から身を離す。ラトソルの大地を駆け出す。外界が近づくにつれ、木々は彼女を阻もうとする。肌を草が傷つける。枝が腕を叩く。傷だらけになりながらもそれがさらに彼女の心をあおる。
 そうして、森を出る。月の光に照らされて彼女の髪は金色に輝く。

 少年は夜釣りに興じていた。こんな月の明るい晩は、岩陰に潜む魚を簡単に捉えることができた。だから彼の背後にある気配に気付くのが遅れてしまったのだ。そこには生きて帰れぬ迷いの森。少年の体はこわばった。銛を掴む手に力が入る。タイミングを計る。今だ。彼は渾身の力をこめて、その銛を彼女に向かって投げたのだ。
 これが、全ての終わりの始まり。

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