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ノック


 隣の部屋から軽く壁を叩く音。控えめなノック。一回だったり、二回だったり、三回だったり。そんな遊んでいるようなノックの音が続いている。
 彼は壁に背中を預けて座り、片膝を立て、だらけた様子で文庫本を開いている。壁の薄い安アパート。彼の部屋は一番端にあり、隣には誰も住んでいないはずだった。彼もそのことは知っていた。
 ときどき彼は、いないはずの住人に対してノックを返すことがあった。そうすることでノックが止まるときもあれば、止まらないときもある。
 座っている彼のすぐ横の壁には傷がある。爪か何かで削ったようなざらりとした筋が、何本も何本もそこについている。彼が入居するときにはそんな傷はなかったはずで、彼自身にも傷をつけた記憶はなかった。しかし、壁の傷は日に日に増えていき、いないはずの隣からのノックに悩まされていたこともあり、もしかしたら記憶していないだけで、やはり自分がその傷をつけたのかもしれないと彼は考えた。ノックの音は幻聴であり、壁の傷は夢遊病のようなものではないだろうか、と。
 何か悩みでもあるのだろうか。考えてみたものの、あるといえばあるし、ないといえばない、そんな曖昧な答えしか出てこなかった。ただ、ノックの音と壁の傷には何かしらの対処をしたほうがよいだろうという予感はした。だとしても、その対処の仕方が彼にはわからなかった。平然とした振りでいつもの暮らしを続けたものの、彼の内心は恐れや焦りでざわついていた。
 そうして一先ず、たまにノックを返すことにしたのだ。それは試しにやってみた程度の行為だったが、続けていくうちにノックは――なくなりはしないまでも――次第に少なくなり、壁の傷は増えなくなった。そのうちに彼はだらけながら文庫本を読むまでに落ち着いたのだった。

 ある日を境に、ずっと続いていたノックの音が止んだ。隣の部屋に住人が入ってきたのだ。隣の住人の足音や鼻歌、テレビやラジオの音、料理をする音などが薄い壁越しに聞こえてくることで、彼はずっと悩まされていたはずのノックの音自体をほとんど思い出さなくなっていた。
 取り戻した平穏な生活。ただごくたまに、ちょっとした物音に対して、無意識に壁をノックしようとして、はっと我に返ることがあった。そのとき彼は、中途半端に上げた手を下ろしながら、少しだけ寂しそうな顔をする。

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