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レイン

 息を潜めたある種の予感は、振り返ればすぐそこにあることをいつでも感じ取ることが出来た。けれど、気付かないフリをしていたのだ。気付きさえしなければそれは遠くに行ってしまうものだと。
 外は大降りの雨だった。ワイパーが規則的な音をたてて街を洗っていく。啓の車の後部座席から、貴子と啓が楽しげに話すさまを見ていた。ときおり貴子が気を使って、後ろの私にも話を振ってくれる。私は笑顔を貼り付けて当たり障りの無い返事をする。
「久しぶりに会ったと思ったら、海外ボランティアの話なんて!私全然聞いてなかったよ、啓。すごいびっくり」
私も全然知らなかった。
「ちょっとね、不意に思い立って。なんていうの?俺にも何か出来ることがあるんじゃねえかってずっと考えてたんだ」
へえ、初耳。
「すごいよね!尊敬しちゃうよ」
「そうかなあ、まあ、若いうちにしか出来ないかなって」
 啓が照れた風にはにかんで頭を掻いた。こういうときに「すごいよ!啓!」と言い続けることができたら、私達の関係はずっと壊れずにいただろうか。大学の四年目に、就職活動もしないまま、休学してまで海外ボランティアに行くことに、私は何の疑問も抱かず、諸手を挙げて賛成していればよかったのだろうか。
 やがて車は、貴子のアパートにたどり着く。「ごめんね、明日バイトだから!日本に戻ったらまた遊ぼう」というと、巻き髪を片手で束ね、雨の中アパートへ戻っていく。ミュールが雨を散らす。ドアの前に着くと、雨のしずくを払ってこちらに小さく手を振った。彼女が完全に部屋の中へ姿を消すまで、啓はハンドルに手を置いて見送っていた。

 啓とデニーズで向かい合ってコーヒーを飲む。二十三時のコーヒーは、煮詰まっていて苦いだけ。もう一度二人で話が出来ればと思った。どこかで修正できればいい。道に迷った時のように、戻ったり曲がったりしながらもとの道に戻れるかもしれない。啓の横顔を見つめる。視線の先にあるものが、もう私には見えない。予感はもう予感ではなかった。私たちを飲み込んでしまったきり。
「体に気をつけてね」そう言って私は立ち上がる。
「そっちもな」啓も立ち上がろうとしたので、「大丈夫」と言った。「一人で帰れる」。
 コーヒー代をテーブルに置いて、私はデニーズを出る。雨は止むことを忘れたように降り続く。傘をさしかけても意味が無さそうだったから、そのまま私は歩き始める。今なら泣いてもいいだろうかと思う。

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