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 今日も隣の部屋から響いてくる、壁を叩く音。激しく打ちつけるわけでもなく、不規則なその音は義務から生じたようでもなく、夜が深まってくれば必ず聞こえた。
 いったい何をやっているのだろうか。俺は壁に耳をつけ、隣の様子を伺う。そこに人の動く気配は感じ取れない。隣に誰が住んでいただろうか。いや、誰か、住んでいたのだろうか。俺は立ち上がり、自室を抜け隣のドアをノックする。しかし何の返答も無い。
 ドアノブに手をかける。ひやりとした冷たい感触が、手を掴まれたように錯覚させる。そのまま静かに右へ回せば、ぎぎぎという鈍い音を立てて、重いドアは難なく開いた。
 閑散とした白い部屋を見渡す。誰もいない。何も無い。カーテンも無い窓から月明かりが差し込み、窓枠をくっきりと畳に写した。
 俺の部屋側の壁を見ると、点々と爪痕が残っている。それに触れようとして初めて気付く。俺の爪の中に白いその壁のカスがつまっていることを。
 痕を指でなぞる。白い壁に何度もつけられたそれを、何度もなぞる。強く食い込み、長く浅く、強く深く。えぐられ削られへこみ、ヒビが入る。同じ爪痕は一つもない。やがて、指先から侵食されるように記憶が俺の中へなだれ込んでくる。それは腹の底から搾り取られるような俺自身の叫びであった。生きたい、生きたい、生かしてくれと。壁を叩き、かきむしり、頭を抱え、そしてまた何度も壁を叩きながら、生きたい生きたいと。胸のうちで叫びながら乞うていたのだ。生かしてくれと。命にかけて誓う、もう人殺しなどしない。もう二度としないのだから、生かしてくれ。

 やがて隣の部屋に誰かがやってくる。取り澄ました顔で、もうどうでもいいような目で空をにらんでいる。何年後か、それとも何日後か、必ずやって来る期限を切られたその時に、生かしてくれと彼も願うだろうか。壁をかきむしりながら。
 俺は壁の向こうからそれを見ていよう。もうすでに光を失った、この双眼で。

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