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ちょっと早いですが三浦さん作品に準備していた感想を。

19 桜の樹の上には 三浦さん 992

 桜の樹の上には、されこうべが実っている。
 これは信じていいことなんだ。埋まる屍体に養われた桜は、その腐肉を餌にし、浮かばれぬ魂の凝りを吸い上げ、春まだき木枯らしの強いある夕、まだ梅も芽吹かぬ夕に、その樹の命果てるまで朽ちぬ乾いた実をたわわに結ぶのだ。その姿を見ることは常なる身には叶わぬ。だが叶わぬとしても、目を閉じれば聞こえる。今宵も、日ごとにゆるむ春の空気に心狂おしく窓を開けば、満開の桜を散らす春風に、川沿いの桜並木から、小学校の記念樹から、数知れぬ乾いた骨の音がからからと和する。この響きは、一年中やむことは無い。

 やはり梶井基次郎は関係ない。

 音に集中することで世界が広がる感覚、というのは、夜に音楽を聴いていると体験できるものに近いと推測して読んだ。あるいは眠りに落ちる少し前、寝床の中にいて窓の外の気配に感覚を研ぎ澄ませる時間。耳だけでなく、目を閉じていてもそれ以外の感覚が沸き立ち、そこにあるものを知ろうとする。
 そこで最初の段。やや急ぎすぎる感じがする。

> それは曾祖父の声で、顔はもう忘れた。
声、だけあれば顔を覚えているかどうかはいらない。

> 曾祖父が、目の見えない体で近づいてくるのがわかる、
これも同じ。

 これらは伏線として後段のために必要なものであることはわかる。しかし、音に集中する感覚の中で、これらは視覚と記憶と否定とを経由するため、集中が逸れるように感じる。

> 私から垂れた紐を辿るみたいに、まっすぐ来るのを。
 私が呼び寄せるほどの曾祖父への思慕らしきものがこの前段に無い。むしろ私の感覚は曾祖父ではなくせかいに向かっている。ひろく、そして矮小に。

> 私の手をしっかりと掴む手、かさかさの手、冷たい肌の奥の温度、草履が土を擦る、その音、熱、感触、

 ここでせかいのひろがりのための感覚のエクスプロージョンが興るのだが、前段の流れのためにその爆発は不発に終わる。

 本来、今は無き曾祖父がこうして盲目の闇の中を訪れるところに気持ちは向かうのであり、せかいのひろがりとかに向かっている場合ではない。もしその感覚を持つとすれば、曾祖父の訪れが頻繁であるか、でなければ、時折感じるせかいの広がりの「予感」をここで感じる、という「矯め」がいるのではないかと思う。
 蛇足ながら、死体と踊るかんかんのうは落語「らくだ」

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