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 小説とは何か。

「途中で有名な金魚屋がある」
 短く歯切れの良い言葉。
 現実では幼児虐待や線路に死体を捨てるなんてニュースが流れていて、鬼は、地獄ではなく、現在のココにいるんだと、そう考えると、とにかく気が滅入り、いやになる。
 小説の世界では、どこかよそよそしくて、だから読んでいて、虚構なんだと自分を納得させられる。虚構だから読むことに堪えられるのかも知れない。読み流せば、たぶん、娯楽性も含まれていて、しかし、それを許容していいのかとの葛藤が残った。
 私という主人公と私という神の視点からの語り。トランクの中にいて、トランクの外のことを語る。視点のゆらぎ。

「雨のにおいと高架下」
 きれいな部分だけを書いた感じ。
 それは何かを書いていないことの裏返しのように思う。というのは、何かを書こうとしていて、それが書けていない、というか、表面の出来事をさらって、もちろん、ギターについた雨粒は心情を表す要素ではあるが、中途半端な印象が残る後味である。「混沌としたもっと」のようなものがもう少し含まれていたなら、より良い作品になったと思う。

「スターフルーツ」
 青と黄。
 唐突に出てくる「彼女は変わっていない」の前後にそれを表す要素がないので、何がどう変わっていないのか、どう奇麗になったのか、そんなことを考えていて、取りようによっては、別れの前をイメージさせるし、ちょっとはぐらかされている感じもする。
 青春の初々しさと、スターフルーツの新鮮さや奇抜さ、それだけでなく、主人公と彼女のこれからとか、心の描写、そのようなものがあれば、より良い作品になったかも知れない。

「完璧に黙示的な気分」
 難しい言葉をそれらしく並べると、それらしく読める。
 作中の「このときの僕」というのは、どのときを言っているのであろう。「このとき」とは現時点に立っていて、それを俯瞰している印象がある。例えば「あのとき」では回想が含まれるが「このとき」では現在性が強い。そう考えると「ベッドに寝転がる」時点で主人公は「怠惰」ということを認識(みらいへの解放の暗示や、明日へのいざないから、帰結)している可能性はあるが、どうもそこらへんのつながり方がよく分からない。言葉を言葉でつないで、何かをはぐらかしているのではないかとさえ思え、ただ、そういうものを必要とさえしていないのかも知れないとも考えたりする。

「森のくまさん」

「問.」
 以下、解答。
 34個の籠に入っているのは、45個のリンゴだけではないかも知れない。また、籠が34個しかないとも言っていない。リンゴの上限も書かれていない。ほかの籠には、ほかじゃない籠に入っているもの以外が入っている。リンゴ、またはリンゴ以外のもの、またはリンゴとリンゴ以外のもの以外。
 好き嫌いは別れると思うが、私は好きな作品である。個人的判断でいうと、162期が良くて、そこからあか抜けないなぁ、と思っていて、179期から再び良くなったという印象がある。
 こういう問題ってGoogleなどがやっている感じがあるが、明確な解答があっても、それを導き出すことが凡人には困難であるということであろう。今回答えをうまくはぐらかして、それはそれでいい。ただ、履歴書の保管には問題があるだろう。

「だるまさんになる」
 狂気。
 だるまとはキャタピラーであったり、都市伝説にある四肢をそがれた東南アジアで不明になった日本人女性であったり、そんな、とてつもない狂気を感じるが、小説ではそれに触れることはなく、風呂場からの何気ないシーンであったり、リビングの風景であったりするのみで、逆にそれが怖い。
 気になったのは作者がコーヒーを知っていることである。これは主人公目線の小説で、主人公はコーヒーを飲めない。だとすると主人公は光サイフォンなどというものをを知っているのであろうか。知っていてもおかしくはないと言えなくもないが、私はそれに引っかかった。作者は既にコーヒーを知ってしまっている。そんな作者が書く小説から、コーヒーに対する知識は消すことができない。だから、主人公はコーヒーが飲めないと書いても、コーヒーを飲める作者からすれば、コーヒーを飲めない主人公の目線は書くことができないと思うのである。

「叫んでいいんだよ」
 ついつい読まされてしまう。
 いいとは思うけれど、最近の作者の作品、読んでいて楽しくなくなってきているというのを少し感じる。明確な理由がある分けではなく、ただ、何となくそう思う。
 たわいのない会話ではあるけれど、そこに立ち上がってくる人間像のようなものはすごく良く書けていて、ただ、「僕は嫌だ」というセリフが何故、僕なのかが何度読んでも分からなかった。素直に解釈すると、女性に対して言っているのであるから、「私は嫌だ」になるのではないか、そんなことを考えている。

「テラリウム」
 今作は誰も死んではいない。
 皮というものから、青とかピンクとか、意味ありげなものでちりばめられて、おかしな姿ではない、小綺麗な出で立ちの織田さんに何故魅かれたのかとか、小説の終わり方とか、不明な点は残るが、タイトルのような小さな世界の中で完結しているイメージも悪くはないと思った。
 皮を考えていて、たぶん、人間、それも汚い人間ではないかと。人は結局皮をはがせば、同じような肉塊で、母から出てくるのは、まさに皮を脱ぐことそのものだし、小説最後あたりの「彼女に被られる皮」とは自らを彼女らに埋没させる行為そのものでもある。青とピンクを混ぜた群青(実際には微妙であるが)で締めくくるのも少しいい。ただ、難しくは書いてあるが、セフレとかそういったことだと思う。

「正直者の世界」
 フォーマットに頼り過ぎか。
 作者の世界観が三作目になってより確実なものになっている。文字に表現できない感情などを文字に表現しようとすると、破綻した文になり、ただ、それでも、いいというか、分かっている範疇だけを書いていたりするよりは、作者自身が何を書いているか分からなくてもいいものはある。それとは逆に作者の作品は決められたフォーマットに入れられたという印象が強い。こういったジャンルの作品の正攻法があるとすれば作者のような書き方なのではないか。そんなことを考えていた。面白い視点だとは思う。

「一人暮らし」
 素晴らしいなぁと思ってしまった。
 一人と独り。案外、小説中に出てくるの暗闇というものは現実世界にもうごめいていて、そこに落ちると、人道をはずれたり、犯罪に巻き込まれたりするのだと思う。意識の広がりではなく、空間の広がり方がいい。主人公と彼女を出発点とした広がりと、越してきた近所や商店街のように全然知らぬ方向からの広がりとが絡み合って地を作る。地は編み目のような二次元状のものから、膜状の三次元に広がって暗闇を埋め、それが、そこかしこで繰り広げられ、爽快感さえ感じる。

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