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「加速科学と愛」
 今まで同じ作品を発表した前例はなかった。意図しないトラブルにせよ、新しい挑戦と感じた。デジャヴに感謝。

「あふれだす恋愛衝動」
 人は見た目が一番である。いつから、性格を重視するといった卑屈な精神が増えてしまったのか。下劣だろうが下衆だろうが。見た目はいい方がいいに決まっている。若い主人公はヤリたいだけなのだから、それを繕って、言い訳を並べた言葉を書いても、家へ帰れば自慰をする。
 恥ずかしい話と認識してしまうことが、主人公の現時点での本質である。恥ずかしさを埋めるために、祖父母の意識を自分のものだとしても、本当は上手くいくわけないとどこかで思っているはずである。だから、実際ふられても、それは自分の意思ではない、下衆野郎の意思だとの言い訳ができる。そのことが恥ずかしさをさらに生む。

「にわか仕込みのかめはめ波」
 面白いかが物語、展開にあると、作者は知っている。だったら、何故、それを駆使して、面白くならなかったのであろう。ということは、物語、展開が面白さの要素ではないとの確証になるのではないのか。
 上手で芸術的な絵とはどんな絵なのだろう。これほど曖昧な表現はなく、その原因を考えていて、それが、直接の原因ではないにしろ、読者のための小説というより、作者のための小説にあるからなのではと思い始めた。展開の移動距離は読者の特権であり、それを作者が意図的に仕込んだとしても、読者の特権を剥奪したに過ぎない。作者が読者目線でそれを言ってしまっていることが私に面白くないと感じさせてしまった要因なのかも知れない。それが先の曖昧な表現に繋がったのかも知れない。

「落ちようと思って」吉
 これほど不条理な感覚に、む、む、む、となったの久しぶり。彼女と私は同性(でいいだろうか、ジャケットを借りたシーンからそう考えたが)で、行為のあと、落ちる。落ちるのは意識的な行為で、事故ではないのはタイトルから想像する。落ちることが、行為の絶頂を意味していて、私は、その表現をアスファルトの衝撃だと捉えてしまう。でも、そんなこと考えなくてもいい。ただ、落ちるだけでいい。
 実社会では、動機のない事件が稀に発生する。そのとき、えも言われぬ恐怖が沸き起こる。この作品も明確な動機を否定しているように見える。落ちようと思って落ちるとはシンプルであるが、なぜ、落ちたくなったのかを掻き消そうとする言葉である。そこが、この作品の深さである。

「爆発!」
 自分の世界観が世界の全てだと疑わない主人公の、何を信じたらこれ程頑にライトノベルを信仰できるのかが分からない前半部分は好きであった。ただ、オチは興ざめした感じ。馬鹿っぽさだけに留まってしまって、すごく失速した感じが残念である。ひとひねりあって、馬鹿っぽさに加え、うーんと唸らせてくれるオチがあったなら。

「赤瓦の屋根は海の向こう」吉
 前作もそうであった。そのとらえどころが好きである。作者の書き方、表現方法には湿度、冷たさではない水分を感じる。二作続いたということを作者の特性として認識した。意識したのではなく、意識せずともこの感覚があるのであろう。特殊な展開で読ませる小説ではないので、少し薄味に読まれてしまうかも知れないが、私は評価したい。
 普通の生活のふとした一部を書く。それでも、いいと感じる小説とそうでない小説がある。テーマが秀逸であったり、人間を書けているといったことが、評価のポイントになったりするが、正直、人間を書くということがどういったことかを私は説明できない。単純に好き嫌いだけでも計れないし、書き方の堅さや柔らかさとも違うが、それでも、いいなぁ、と思う作品であった。

「獅子の山」
 直接表現でない部分を含んでいるので、安直に理解できない部分もあるが、作者の今までの作品の中で一番、構成と理解の整った作品であると感じた。ここまで複雑だと、なんとなく、すごいことが書いてあるなとの印象が強くあらわれるが、子と父と母の関係性が完全に理解できるようには書かれていない(読者のとりようによって、解釈がいくつも生まれる)ので、その印象に流されてしまうだけなのかも知れない。でも、いい作品であるとなんとなく思う。

「故宮の恋」
 修学旅行の出来事は同人文芸誌のストーリーなのであろう。前作より遥かに素晴らしい作品である。ただ、不可の要素はないが、可の要素も思い浮かばない。
 前半と後半の空想と現実の逆転で、読者の意識が強制的に飛躍させられる。本当はそこに新鮮さがあるのであろうが、その新鮮さが感じとれなかったのはストーリーの平凡さからくるのであろうか。僕目線の小説で僕が気がついていない。ならば、いったい誰が彼女の媚びに気がつくことができたのかは気になった。

「八咫烏」
 前作までの流れから見ると、すごくまとめあげてきた印象。そのことが不可のない作品として勢いを削いでしまった。主人公の名前の読み方が分からなかったことが最後までこびりついていた。サポーターを受け入れた主人公が、神聖な場所に唾を吐くことが許せなかった。ヤタガラスとサムライの繋がりは不明。

「最後まで。」
 前作までの、ストレートに言いたいことを入れ込んだ書き方ではなくなった。固執した部分が削られたから読みやすくなり、読者に偏った観念を与えなくなった。ただ、ストーリーとしては、パターンに沿ったものと思われる。ある時期(クリスマス)まで生きられなかった彼女の想いを死んでから知るといった。生前と死後の感情の幅を雪の質感で表現したといった。
 彼女の病名は何だったのか。ストーリーで死に重きをおくために、不治の病に逃げてしまってないか。病気の進行状況の時間的流れに矛盾はないか。

「死後の辞典」吉
 哲学を含めて人間というものを捉える。今回は文字であり、言葉である。好き嫌いはあると思うが、作者感のよく出ている作品であり好感が持てる。難しいことをそれほど難しく書いてはいない。こういった内容であればあるほど、難解な表現に走ってしまいがちであるが、それがないのがいい。作者らしい視点、作者らしい作品というのは大切である。

「未来ちゃんと僕」
 ここに深い意味なんてない。読んだそのままである。

「愛おしい人」
 女々しい男(めめしいが女々しいに変換されて、昨今いかがなものかと思った)のこと。内容に新鮮さ(女が姐さんだと考えはしたが、今回はそこまで込んだ設定でもないのであろう)がなかった。最後の「玄関の鍵を閉めた。」という主人公の行為は、作者の「家」に捕われている故のニュアンスであり、主人公の行動というよりも、作者の小説をまとめようとする衝動的な負の要素が働いている。

「蛟」
 小難しい言葉で、すごいことが書いてある小説だと錯覚をする。「みずち」と読みを探し当てるも、そのビジュアルに確定したものはないらしい。生みの親と、生みの親を殺した育ての親、両者の中で葛藤する主人公であるが、読者に完全な理解を拒む、一筋縄ではいかない表現方法が難解さを生み、その難解さを良質な小説だと錯覚させることが一番の問題であるが、なんとなく面白かった。

「その日も、女は倒れるくらい働いた」
 100リットルの寸胴で、直径、高さともにおよそ50センチである。ひとり300ミリリットルのミルクティーで100人前が30リットルとする。確かにでかいが、これで巨大といえるのであろうか。藝術家といっているので、デザイナーではないはずだ。だとすると実際にある鍋のサイズ(工業デザイン的)では、巨大さのイメージが出ない。直径2メートルくらいあれば、鍋として機能しない建造物などではなく、鍋としての機能を持たせたまま巨大なイメージも出る。
 例えば、長さ30センチのカブトムシの像は実際のカブトムシより大きい。1メートルのカブトムシの像はもっと大きい。でも、巨大ではない。巨大が好きな夫の妻はやはり巨大なのであろうか。巨大とはどの範囲を基準にした巨大なのであろうか。

「十か条」
 女が十代、男が二十代といったところか。その年齢で「云」を使うのか。「言」の方が現代的であると思うが。これが、単に小説形態なのであれば「云」は作家の特性として認識することもできるが、十代の女が書いた「十か条」であれば「言」を使うのが一般的ではないだろうか。もしくは、若さ特有の別の書き方(私は知らない)があるのかも知れないが。「云」を使う女の背景を作者が意図的に表現しているとしても、「云」だけでは伝わらないし、実際には「言」と「云」には使い分けが存在しているが、そのことがこの小説の趣旨でもないと思う。
 「十か条」はそれ以上でもそれ以下でもない。そこから、間接的感情を読み取るなんて行動はあえて避ける。私はそういう読み方をしたが面白かった。

「自意識過剰と妥協」吉
 面白かった。変なものには明確性がないので、腑に落ちない要素が生まれ、それが、読者に難しさを与えることを考えたが、ほくろ的な表現や、動くなどのユーモラスさが出ているので良しとできる。前作が「存在の証明」を書いたとするなら、今作は「意識」のようなものを書いていると解釈をした。でも、わたしはそういう込み入った解釈は好きではない。だから、素直に読んで楽しませてもらった。作者感の出ている小説である。

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