仮掲示板

雨のにおい

 雨が降るよ。空気が湿ってる。においがする。夏の日の水たまりのにおい。それが薄まったにおい。
 放課後の曇り空を見上げて、駅の改札口の柱にもたれかかって友達を待っている。去年まで同じ中学で、今は違う高校に通っている友達。二分ほど待って、メールを打とうとしたところで、「みいちゃん、ごめん遅れて」と腕を掴まれた。
 卒業式の日、私の腕を掴みながら泣いていた子だった。そんなだから心配していたのだけれど、この前会ったときも、今も、彼女の顔は無理なく明るくて、心配することもなかったらしい。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
 夏休み以来だった。
 彼女は私の腕を掴んだまま、いそいそと中学のときからいきつけの喫茶店に向かう。呼び出されたのは私のほうだった。何か報告があるそうだ。

「はい、ではどうぞ」
 ウェイトレスがケーキセットを二つ置いて去っていったところで、私は彼女を促した。大体わかっていること。彼女はためらう様子を見せてから、ほんのり嬉しそうに言った。
「昨日から付き合うことになりました」
「……私と?」
「違うってば」
 同じクラスの男子と。席が隣で話しているうちに仲良くなって、夏休みにも一緒に遊んだりして、そうしてようやく昨日、ちゃんと付き合うことになったらしい。
「そっか」
「うん」
 大方話し終えた彼女は、ふうっと息をつき、ケーキセットのミルクティで喉を潤した。

 雨が降るよ。すぐに。たぶん十分以内に。それほど役に立たない私の特技。雨の気配。においでわかる。夏の日の水たまりのにおい。それが薄まったにおい。
「雨、降るかなぁ」
 喫茶店を出て、駅前に戻る途中、空を見上げながら彼女が言った。
「どうかなぁ」
「でも、みいちゃん、よく当ててたよね。今から降るって。においでわかるって」
「うん、そうだったね」

 ひとり歩きながらカチンと携帯電話を開けて、またパタンと閉める。もう一度開けてメールを打つ。さっきの喫茶店で嬉しそうに話していた彼女に。卒業式の日、私の腕を掴みながら泣いていたあの子に。
 ――雨が降るよ。
 送ってすぐに彼女からの返信メールの音。私はふっと肩の力を抜いて、携帯電話を操作する。ぽつんと雨の滴がひとつ、親指の付け根に落ちる。その冷たさに一瞬だけ止まって、けれどまたすぐにメールを返した。思い浮かべる。ほんのり嬉しそうな彼女の顔。どこかちくりと痛むのだけれど、でもきっと、泣いている顔よりもずっといいよね。

伊織さんの冗談

 喫茶店のウェイトレスをしている伊織さん。私よりも頭一つ背が高い。顔を合わせると挨拶をしたり微笑み合ったりする程度には仲良しだ。伊織さんの笑顔はやわらかく、仕事の疲れを忘れさせてくれる。
 喫茶店の隣、私のバイト先は洋服の量販店で、お洒落なイメージがあったりもしたけれど、入ってみると力仕事のほうが多かったりする。服が一杯に詰まったダンボールを引っ張り出したり持ち上げたり。
「佐藤さん、手伝う?」
 あるとき、早番で仕事終わりだった伊織さんが、裏口でダンボールを引き摺っている私を見つけて、そう声をかけてくれた。
「いいよ、仕事だし」
「手伝うよ」
 そう言って伊織さんはしゃがみ込み、ダンボールの反対側を持った。
「どこまで?」
「あっ、レジの横」
 持ち上げて歩調を合わせてレジ横まで運ぶ。伊織さんはまるで重そうな顔をしない。他のバイトの女の子と一緒に運ぶよりもずっと軽かった。それは伊織さんが長身だから。持ち上げる高さの関係で自然と伊織さんのほうが負担になっていた。
「いいのに。でもありがとう」
 ダンボールをレジ横に置いて、私は伊織さんに向き直った。
「ううん。佐藤さんみたいな子が重そうにしてたら、ついね」
「……伊織さん、力強いね」
 照れ隠しに話題を変えた。
「そうかな? ねえ、レジに両手ついてみて。後ろ手に。身体はこっち向けて」
「うん?」
 わけもわからず言われた通りにすると、すぐに伊織さんは私の手の上に自分の手を重ねた。それから私の両手をきゅっと掴む。掴まれる。
「力強い?」
「う、うん」
 妙な雰囲気。目だけを動かして辺りを見渡すけれど、近くには誰もいない。
「いや? いやだったらそう言って」
 真っ直ぐな目。伊織さんの顔が近い。考える。でも考えられない。ああ、これって何だろう。いきなりすぎる。
「い、いやじゃないけど」
「けど?」
「真っ直ぐ見られると息ができない。顔熱い」
 私のその言葉に、伊織さんはかくっと項垂れる。
「伊織さん?」
 そんな反応に心配して呼びかけると、伊織さんは顔を上げて、
「佐藤さんはどうしてそう、可愛いこと言うのかな」
「えっ? 何が?」
「ちょっとふざけただけなのに、もう」
 私を捕まえている人の、潤んだ瞳が、真っ直ぐに向けられている。伊織さんの顔。溺れそう。
「顔、近い」
「うん」
「でも伊織さん、女の人でしょ?」
「ううん、男の人」
「え……、あれ……?」
 触れる寸前、「冗談」と吐息混じりの声。

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