第99期 #4

歴史の再臨

 月の光さえも見ることができない、暗雲に満たされた空の下、一人の老人が、まるで幽霊のようにひっそりと、林の中を歩いていた。
 その林は、老人の人生で最も険悪な思い出のある場所だった。
 それは、殺人。
 誰にも発見されることなく、かつての犯罪は公訴時効をとっくに過ぎていた。その相手の命がもうないということは、老人と、もしかすると彼の遺族のみが知りうることだった。老人は数年前、自白をして、遺族へ謝罪することを思い立ったが、そうすれば報道関係者は黙っていない。大衆の発言とは無責任である。責め立てられるだけだ。老人の心中も察せず、同時に、法律上にもう無罪であることを、考えもせずに。その上、彼らは老人に、何をすべきかを指し示すこともせずに、ただ永遠と、排除し続け、自らをまるで人を裁く選民であるかのように誇り続けるのであろう。そんな社会の中で、老人は今ある貴重な時間を、過ごしたいとは思わなかった。
 老人は、林のずっとずっと奥に進んでいった。もう何十年も前の事であるのに、死体を埋めた場所が、つい昨日のことであるかのように鮮明に思い出された。あったとしてももうとっくに白骨化しているのであろうが、それでもまだ彼の亡骸がそこにあるのかどうか、老人は知りたかった。林の闇の中に進むにつれ、老人は心の内にこれまで経験し得なかった高揚と恐怖を感じた。そして同時に、彼の心境は犯行時の彼の心境に近づいていった。同時に、老人の決して消えぬ心の傷跡が、痛烈に痛み始めた。
 やがて、老人はやっと死体の場所に辿り着いた。震える手で、穴を掘った。暗雲から、掠れた月の光が、見え始めていた。
 しばらくして、老人はついに黒いバッグを発見した。老人はバッグに違和感を覚えたが、何しろ何十年前のことだ。明確に記憶しているわけではない。勘違いであろうと、そっとチャックを開けた。
 とたん、老人は目を見開いた。老人がかつて殺した男とは似ても似つかぬ、一人の女の死体が、老人の目に映った。老人の胸は高鳴った。同時に、女の体がまだ温かいことから、全てを悟った。
 突然、彼の後ろに、青年が一人現れた。彼の手には、白銀の短刀が握られていた。彼はためらわず、目的を遂げた。驚くほどに静かな時間だった。
 空には、真っ白な月が、煌々と輝いているのが見えた。



Copyright © 2010 八代 翔 / 編集: 短編