第94期 #28
クラブで出会った彼女は、いつの間にかホテルの中にいた。
「一緒に寝たいな」
「私、面倒くさい女なの」
「私ね、狭いところにいないと寝られないの。どこか不安なの」
「俺が抱きしめてやるよ。狭くて抜け出せない腕の中」
「よく、バスタブの中に入ってみるの。横向きに寝そべって耳をぴったりくっつけるの。そうすると音が聞こえるの」
「下のカップルがあんあんしてる声?」
「それが、分からないの。聞いてみてもらってもいい?」
「いいよ。一緒に聞こう」
そう言って俺はバスタブの中に彼女を入れた。僕は、そのまま寝かせようと手を添えたが、彼女はそれに逆らうように、排水溝が有る方に頭を向けた。僕は覆いかぶさるように横に寝そべった。背中が冷たく白い壁に触れて、僕はぬくもりを求めるように自由な左手で彼女の腰をなぞった。僕の体に温かさを伝え、僕はその温かさのおかげで生きているような気がした。
「どう、何か聞こえる?」
僕は彼女の繊細なうなじを守る少し長めのふわっとした髪を掻き分けながら囁いた。彼女は何も答えなかった。僕は右耳をぺたりとバスタブに付けた。
「冷たい!」
僕は叫んで彼女にぎゅっと抱きついた。
「私を失神させるまで抱いていられる?」
絞られた雑巾のような声だった。風呂場に響いたその声は、振動となって頭蓋骨を右耳から揺らした。
「そうできるように努力するよ」
「そうしたらね、そこの蛇口を両方とも目いっぱいひねって、とにかく入れるの。そうすると、私、浮かんでくるかな」
「私の死体を死ぬまで抱いていてくれる?」
「それは無理だな、物理的に」
「じゃあ、お腹が減って朝食を頼みたくなるまでなら、どう?」
「それも無理かな」
「どうして」
「会ってばかりだし」
「見かけによらず、真面目だね。最近はそんな子ばっかりだわ」
「不真面目ならよかった?」
「さあね、抱けると言われても私は冷たかったと思うわ」
「タイプじゃない?」
「私は、耳が聞こえないの。右耳が。クラブに行きすぎて、段々聞こえなくなってくのが、分かってたんだけどね」
僕はその時、たまらない居心地の悪さを感じた。僕は彼女の傍らで寝そべっているしかなかったが、三メートルくらい遠ざかったようだった。僕は何もできず、ただじっと右耳から伝わってくるものを感じていた。血管の流れる音。何も聞こえない時の音。冷たさ。遠くて何も聞こえなかった。