第90期 #6

すみれ

すみれ


僕は下町の長屋で生まれ育ち、凡庸な幼少、少年期を過ごした。そこには貧しいながらも人々がさまざまなものを共有できた美しい時代でもあった。

僕の心がまだ嫉妬を覚えず羨望する事さえ知らなかった頃、どちらかと言えばワンパクではなかった僕は、春には桜の木の下で女の子とママごとをしたり、夏には浜辺で一人砂の城を作ったりしていた。

僕の隣りのおじさんは着物の作家で仕事場に子供を入れるような事はしなかった。騒がしいと言うのが主な理由である。でも僕だけは特別に入室を許されおじさんの描く模様をあきもせず一時間でも二時間でも眺めていた。
「あの子、アホちゃうか?」おじさんはそんな事を僕の母に言っていたらしい。
三時になると一人娘の雅ちゃんがおやつにお菓子とジュースを持ってきてくれた。僕の目当てはおやつと雅ちゃんの笑顔だったかも知れない。雅ちゃんはもう年頃で婚約者らしき男の人がよく訪ねて来た。

雅ちゃんはよく僕をいろんな所に連れて行ってくれた。その頃の僕は乗り物酔いが激しく、そのために僕と雅ちゃんは徒歩で数時間かけていろんな町やお祭りに出かけた。
「ぼん、足どうもないか?ちょっと一服していこか?」雅ちゃんは時折心配そうに僕に尋ねた。―- 僕は雅ちゃんと一緒に歩けるだけで嬉しかった。

雅ちゃんが嫁ぐ日、僕はただ雅ちゃんの花嫁姿の美しさにあっけに取られた。雅ちゃんの家には色々な花がたくさん贈られ、並んでいた。それに負けじと思ったのか僕は原っぱに向かい一番綺麗な花を摘んだ。これが僕の覚えた初めての嫉妬かも知れない。そして僕は急いで家に帰り、雅ちゃんに差し出した。
「ぼん、アホやなぁー・・すみれの花そんな風にちぎってしもたら、すぐ枯れてしまうやんか・・・・・そやけど、ありがと・・・・」雅ちゃんはそう言って優しく微笑みながら僕をしかってくれた。

翌日、もう雅ちゃんの居ないおじさんの仕事場に入ると、ガラスのコップに僕の摘んだすみれの花が一輪挿してあった。



Copyright © 2010 糸原太朗 / 編集: 短編