第88期 #14

彼女の世界

 肖子はテーブルに左肘を突き、その掌で左頬を支えながら、春風を吐き出す窓外を見遣っていた。
 俺が手渡した旅行のパンフレットは、最初の二頁だけが彼女の手で開かれると、後は風に弄ばれるのみであった。
「何、行きたくないの」
「行きたいなんて言ったっけ、私」
 肖子は手にしたリモコンで、一秒おきにテレビのチャンネルを変えていく。
 付き合った当初から、肖子は健忘症の気のある女だった。過ぎていく僅かな時間が深淵を生み出し、彼女の言動を奥底へと呑み込んでしまう。
「こないだ、昔高校の修学旅行で行ったH県にもう一回行きたいって」
「修学旅行H県じゃないよ」
 同棲を始めて二年、肖子の健忘はこうした喰い違いとなって、俺達の暮らしを蝕んだ。好みや趣味、欲求、約束、夢、そして想い出。それら全てが、常に異なった色合いを帯びて俺の眼前にふらりと現われた。
「じゃどこ行ったの」
「N県。N県のS島行ってK神社お参りした。和美と瑤子と。ほら、先月子供生んだって葉書来てた和美」
 等閑な返答やその場逃れの嘘を素肌に纏い、肖子の健忘はいよいよその正体を掴みがたいものにしていく。
「葉書って」
「あ、捨てちゃったかも。朋華ちゃんだって。和美のお祖母ちゃん朋江だから、一文字取って朋華。あの娘お祖母ちゃん子だったから」
 或いは肖子は、健忘すべき何ものも有していないのかも知れない。彼女は記憶を抱き続けるよりも、虚妄と戯れることを選び、何もかもを一瞬の内にゼロから創造してみせる、火花のような瞬発性を好んだのだ。
「高校ん時仲良かったのって、京子さんとかじゃなかった」
「京子って誰」
 一瞬で構築された世界は、次の瞬間、たやすく崩壊する。肖子は一片の情けも無く、眼前に展がる世界と、その創造主たる自らをも棄て去る。それ故、彼女の世界はいつも新しく、儚く、自由で、残酷で、美しい。
「結局、行ったのN県なのか」
「それって、そんなに大切なこと」
 肖子は舌で何かを転がしながら、俺から眼を逸らさずにそう問うた。そして下顎を二度三度と左右に振って、鋭く何かを吐き出した。
 床に跳ねたのは、俺が小学生の頃失くした、コーラの瓶を模した消しゴムだった。彼女の唾液に塗れたそれは、俺が右掌で摘み上げるや否や、砂糖菓子のようにぼろぼろと崩れた。
 テレビは次々にその面相を変えていく。そして俺自身もまた、蜉蝣のようなこの世界で、俺という唯の美しいピースに成り果てるのだ。



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