第85期 #29

やさしく、さびしい、けもの

「あ、それなに」
 社のロッカールームで帰り支度をしていると、私服に着替え終え化粧を整えていたK子が私の頸許を指差し、嫌に華やいだ声で言った。
 手鏡を取り出して映すと、頸の右側から肩口にかけて、十センチほどの筋が入っていた。皮の下から朱みが灯っていたが、痛みは無かった。
「どこでつけたのよ、そんなの」
 K子の言葉に、周りにいた者達もちらと視線を寄越す。何かを誘き出そうという、澱んだ沈黙が辺りを満たし、そしてその誘き出された何ものかを殴りつけるための凶器か、身体の芯に響く金属音が視界の陰から時折投げつけられる。私はそそくさとブラウスを閉じ、曖昧に微笑んでドアを潜った。
 最寄駅までの雑踏の中に身体を浸しながら、頸許の記憶を辿った。が、ただあの傷の輪郭が鮮やかに甦るだけであった。
 近頃やけに夜を彩るようになった青色の灯りに、淡く温かく、それでいて冴やかな朱が浮かぶ。あたかも獣に爪立てられたような、躊躇いの無い一筋。
 たとえば、熊。さほど大きくもなく、といって小熊でもない中ぐらいの熊が、私の寝ている間に頸許に柔く爪を立てたのかも知れない。欲も怖れも痛みも感じさせず、鎮まる私の肌に、ただすっと筋を引いて去っていく――私の日常に取り紛れながら、ずっと寄り添っているかと思えば不意にいなくなり、知らない間に親しく寄って来て、それでいてまみえることはなく、残り香だけがいつも漂っている――、そんな存在ではないのか。
 そんな空想を、先ほどのK子の笑みが内側から喰い破った。人との繋がりを、見晴らしの悪い路地裏からしか捉えられない女の、下衆な嗤いだった。彼女らはその総身に散在する、碌に顔も想い出せない人々から徒に刻まれた無数の傷を、安っぽく毒々しい衣装と、底無しに軽薄で虚が実を丸呑みする脳でひた隠しながら生きているのだ。しかも慈しみの欠片も無く、錆びついた刃で切り裂かれた傷はこの上なく膿みやすく、彼女らの心身を容赦無く腐らせていく。
 私は、黙々と駅へ向かう人々の中に立ち止まり、私の傷にそっと触れてみた。獣は、故郷から来たのかも知れない。生の取り結び方を忘れかけていた私に、故郷の標しを与えてくれたのか。
 或いは、日々押し寄せる暮らしに埋没し私の意識から抜け落ちた故郷が、はぐれた母を呼ぶように、愛憎の傷をつけたのか。
 指先から意識を戻した私は、駅がどちらの方角だったのか、もはやわからなくなっていた。



Copyright © 2009 くわず / 編集: 短編